鈴木幸希
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2025/04/30(Wed) 20:30:48
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アルス
2010/02/23(Tue) 01:53:37
『サイバーアーツジャパン-アルスエレクトロニカの30年』
@現代美術館 2月頭から開催されている展覧会。 タイトルにひっかかりいってみた。 アルスエレクトロニカはオーストリアで開催されるメディアアートの展覧会のこと。 今回の展覧会は、その30周年を記念した国内版といったところらしい。 見に行く前に軽く下調べをすると、 岩井俊雄、池田亮司、教授、エキソニモ、JAXA、明和電機、電通、、、、なんかの名前が上がる。 文化庁メディア芸術祭が協賛しているからか、 どうもキナくさいというか企業色が強くなっている。 ICCが一時閉鎖された時にも感じたが、 メディアアートは進歩?するにつれて、金とシステムが重要視されていて、ぼんぼんのお遊びが混じってきている。 とはいえ、メディアアートに金がかかっているのは今始まったことではなく、どちらかといえば予算は低減されているかもしれない。 メディアアート作品は、アーティストが独自の思考でシステムを開発する為、模倣化は難しかったが、コピー文化は類似作品を一瞬で仕上げる。 コンピューター内部のみで作品を表現してしまうと、それは一層容易である。 なにかした作品を作るにあたり、”コピーされない”という意識が働くことがある。(※反対にコピーされて光栄だという意見もあるし、コピー自体が作品という面もある) もちろんコピーをしてやろうという意識もあるし、 サンプリングやコラージュはそれにあたる。 コピーは基本的に罪として扱われる場合が多い。 そんな法律すらあるし、それ以降の意識からくるのだろうが心情的にも良いものではないかもしれない。 とはいえ、服などはまったく同じものが量産され、それらの組み合わせでしかない。(※オーダーメイドだDIYだは除く) 誰かと同じ服を着ようなどという現象が流行を生むが、 いざまったく同じ服でスタイリングすら一緒の場合の人間が並んだ時、あまり気持ちいいものではない。(という意識になる) それは片方がコピーをしていなければ中々おきない状況であり、 それを片方が認めざる終えないからだろうし、なぜそれが罪意識を生むかといえば、コピーは一瞬の出来事である場合が多いからだろう。 ただ、コピーがあるからオリジナルが生まれるというイタチごっこ現象が、進化を生んでいる事は間違いなく、一概にコピー文化に罪意識を持つわけにもいかない。 何の話だ。 PR
電子書籍
2010/02/14(Sun) 04:24:53
i padが発表されて約1ヶ月。 発売が待ち遠しいかといえば、微妙な心境。 同じような事が少し前にもあった。 kindleの日本語対応版がなかなか発表されない事による微妙な心境である。 ※dxはpdf読み込みに対応した為、pdfデータであれば日本語観覧が可能。 要は電子書籍に対応したリーダーがほしいだけなのだが、 kindleが日本語非対応ということで、なかなか買うことが出来なかった。 そこにi padが発表されたもんだから、リーダーとしても丁度いいし、いいタイミングかと思ったのだけれど、 詳細をみるとどうも微妙である。 i phoneとi bookの中間という狙いは間違いないのだけれど、どちらかといえば結果的に中間的存在になったという感じが否めない。※どちらかといえばでかいi phoneという感じか。 i padの存在はそもそも微妙だけれど、サイズがでかいというだけでappの楽器アプリ操作に期待ができたりはするし、それなりの可能性はある。 なにが微妙かといえば、バッテリー駆動時間。 ”なんと連続稼動時間10時間!!”と大々的に広告されているが、 !!はネガティブに捕らえることしか出来ない。 10時間しか持たない!!という事を大々的に書いているようにしか思えない。 電子ブックリーダーとして使用する場合も、10時間も読み続けることはないから事足りるのではないかとも思ったが、kindleはリーダー専用、液晶白黒などと機能制限をしている為、2週間はバッテリーが持つらしい。 海外旅行者などには持って来いである。※海外など行くことはないが・・・。 なぜ、リーダーがほしいかといえば、 本のデータ化に賛成しているところがあるからかもしれない。 ※レコードのデータ化はいまだ疑問視するところがあるが・・。 本は無駄が多すぎるかもしれない。 もちろん内容や包装を含めて一冊の作品として捕らえることが出来るものも多い。 ※美術本や写真集など なにが無駄かといえば、週刊誌、漫画、新聞などの、 一定期間を過ぎると束ねれるか、駅のゴミ箱に捨てられた末、浮浪者の生活の糧になっている種類の紙である。 残らない本は、どっかの段階で紙ごみとして扱われ、単なるリサイクル資源となってしまう。 なんとか”本”として残った本も古本屋かなんかで扱われるが、bookoffのような内容を選ばずに買い取ってしまうようなところを見ると、もはや値段のついたゴミ捨て場という感じ。※ゴミの中にも宝はあるが。 ゴミを最初から、わざわざ形にする必要もない。 最近、web上で漫画を見ている姿を見た時に思ったが、本がデータ化することで何が問題かというと、 音楽のデータ可の時と同じで作者が金にならないという点である。 いくらデータを金で売ったとしても、いくらでも打破する方法はある。 編集者のホームページに週間マガジンかなんかのデータがアップされれば、多くの人間はみるが金にはならない。 金にならなければ書かない人も増えてくるかもしれない。 現在はダウンロードに金がかかる方法がほとんどだが、データは金額を低くしなければおかしい。 本も同様でデータのほうが安いから儲からない。 ※作者を守るため、印税の%は高くなっているらしい。 電子ブック作成用のアプリケーションがすでに出回っている。 これによって、出版社を通さずとも、本を出版できてしまう。これも音楽と同じ現象である。 本の出版方法が大きく変化するのは、かなりのスピードで行われるはずである。 i podの時と同じくらいのペースに違いない。 なにかしら進化した末、データ化が進むと、物質自体が減らすことができるが、 なぜその方向性に向いているのかが疑問でもある。 すべてがデータ化しなんたかの影響で消去された時、何も残らないという状況が最終目的なのだろうか。
無題
2010/02/09(Tue) 03:37:38
j dillaについて。
彼が亡くなってもうすぐ4年になるという。 そう考えると異常に早い。 ※yoshi-boが書いてて気がついた。→■ どちらかといえば、jay deeと名乗っていた時のほうが馴染み深い。 erykah babuやtalib kweli、hi-tekなんかを手当たりしだいに漁っていた頃、jay deeの名前はレコード盤でヤケに見かけるようになり、そんなうちになぜかイギリスのbbeからアルバムがやばかった。 一時期、イギリス産のhiphopがやけに注目されたが、カナダ同様パッとしなかった。 あまりにコピーだったからだろうか。今ではフランスやオランダが勢いずいているようだ。 japanはいかに・・・。 j dillaについて調べていると、 レーベル関連で世に出ていない音源がいまだにあるようだし、彼のラップアルバムも、トラックだけは揃った状態のものがあるらしい。 mcaのバカ。 また愚痴だ。 睡眠
音楽から
2010/02/03(Wed) 02:11:42
1月にたてた目標はいかにと振り返ったところ、
健康面以外はクリアーというなんともいえない結果。 ミックスをまとめて、トラックを2つ。 渋谷にいることが多く、レコードも漁り、電車の移動時間が増えた事で本も3冊読めた。 本からの影響は特によかった。 ①音楽から解き放たれるために 原雅明 ②ユングのサウンドトラック 菊池成孔 ③レコードの美学 細川周平 の3冊。 ここでは、 ①音楽から解き放たれるために 原雅明 について少し。 原雅明という人が気になったのはいつの頃からか。 買おうとする音源のライナーはこの人が書いている事が多々ある。 hiphipでもjazzでもエレクトロニックでも、なんでもかんでも ※good musicに限る。(彼は書きたい人を決めているのだろう。) そんな中、昨年12月にこの本が発売された。 簡単に言えば、原雅明が書いてきたライナーノーツ集といったところ。 音楽を評論する事は嫌気が刺す場合が多い。 タワレコが発行するBOUNCEに代表される、アルバム紹介や、 クソ曲ばかりを紹介するその他メディアの音に対する表現方法が、あまりに乏しい。 もっとも気持ちを逆なでするのが、シチュエーションを決定してしまうものだ。 ①いつ ※時間 ②季節 ③誰と ④どんなときに などを組み合わせる場合が多い。 一歩譲って第3者がそれを決定する事は、理由があるかもしれないし、 それを”歌”にしているほうはといえば、そんなもの自由である。 愛だの恋だの友人だの出会いだの別れだの勇気だの感動だの悪だの破壊だの、、、、 そんなもんだ。 それぞれがそれに対して何を感じるかはどうでもいいのだけれど、 それを一致させたがる(照らし合わせる)傾向に疑問が芽生える。 作り手は、幅を大きくする事でターゲットを増やし、リスナーが事実関係を曲げてでも照らし合わせ干渉に浸る。 要は宗教となにも変わらないところがあり、~~信者などと形容されたのはそのせいだろう。 その行為を音楽で行っている事にと、それが音楽として並列されてしまう事を無視している傾向にもあり、 インディーが生まれたはずだが、今やビジネス形態の違いでしかない。 (とはいえビジネス形態もほぼ一緒である。大企業と中小の違い程度だ) ここでいう音楽とは何かといえば、そんな大層なことを決定づける技量はない。 ただ、耳を信じるだけの話で、そんな雰囲気があっている人が稀に現れ、ニヤニヤするだけの話。 原雅明は明らかに、耳が肥えている。 彼のライナーは音に触れる事は避け、情報や、心情で構成される事が多い。 聴くのは、我々だという事を忘れていないし、下手に進めるような生っちょろいもんでもない。 その一貫性を受け、大いに感銘を受けた一冊。 1900円だけど、これを読み終わると数万円使ってしまう事になるので注意。 |