鈴木幸希
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贔屓
2009/11/08(Sun) 01:31:05
現代美術館で友人と観たレベッカ・ホルン展は予想以上に、退屈だったことは間違いなく、
そんな時は、常設展を観て気を取り直す。 ※ウォーホル作品を観て金を払った事実を消化するわけだ。 美術館へたまに行くが、気持ちを満たすことは滅多にない。 それでも暇さえあれば企画展や展覧会を眺めに行く。 なんらかの関連本を斜め読みし、適当な文脈くらいは大雑把に知っている気でいるが、 歴史ではなく、思想の部分が記憶に大きく残る。 美術史に限らず、歴史的なものは個人(自身)が知った時点からスタートする場合がほとんどだ。 100年前だろうが、さっき知った事は、自身の中の現在なのであることに違いない。 ある一定期間、ある一定の枠の中で持続している物事に対する、現在進行形的動作は陳腐に見えてしまうことが、そのおおよそは上記からくる時系列破損状態が招くものだ。※極個人的な見解でしかないが。 例えば、jazz界の新鋭なんてのが毎年10組あわられたとしても、結局は3回ほどしか聴かれない。 と、いった矢先 菊池成孔とペペ・トルメント・アスカラールの新作、 『New York Hell Sonic Ballet』はすごい事になっていた。 彼の事となると、ものすごい贔屓になるが、 成ちゃんの音楽が好きかと問われると、半信半疑なところがあり、大概の作品は所有しているものの、 愛聴にはいたっていない部分があった。※ある種ダサい部分があるからだ。 ただ、今回は驚いた。(というかまだ聴いている最中だが) 多種多様な音楽的要素が、意図的に盛り込まれている様が表立っている。 やり口はまるでブレイクビーツもしくはオールドスクールばりのサンプリングミュージック的手法と同列にあるような輪郭なのだが、まるで違う。 彼の語り口が音になったような構成なのだ。(とてもわかりにくい表現だが。。。) 各地(各種)にある音のルール(※ここではジャンルではなく、ミニマル、コラージュなどの手法を指す)を、 一種にまとめ上げる方法として、ミックスという方法をとるのは容易であり、誰もが試みて成功もあれば、クソみたいなもんもある。 この作品はミックスなんて上品なものではなく、ほぼカットインの連続で構成されており、 それがミックス以上の効果を聴き手に与えているから異様なのだ。 彼の語り口は、よくぶっ飛ぶ。 例えば、音の話と、伊勢丹の話が平行していて、そこに彼の心理ではない、誰かの思想が盛り込まれる場合などがそれだ。 勧めはしないが聴くと面白い作品。 PR
時期
2009/11/03(Tue) 02:17:51
”共感”なんてのが出回ったのは、ここ数年の話ではないことは確かだけれど、
数年前まで、表立ってこの言葉を聞いたような気がする。 やはり簡単に考えすぎていた。 時代は妙な方向に変わった。 誰を信じて、誰についていくか。 本当に先導者を求めていたのか、、、、。 その感覚はすでに麻痺していたのではないか。 手遅れだったというヤツだ。 結果、皆忘れてしまった。 何の事を書いているわけではない。 少し歳を重ねて気がついただけの話だ。 進化することでリセットすることは出来ない。
ミニマル化
2009/10/20(Tue) 02:22:24
前記事にも書いたように、
あまりにjim o'rourkeの新譜、the visitorがすばらしすぎる。 tortoiseの”it's all around you”以来の創作性だ。 ジム・オルークについて、ここの書き出すと、 ソニックユースやガスター・デル・ソルにまで発展してしまうので、さけておきたい。 数年前まで、彼はある種未知の存在だったのだけれど、 大の親日家であることから日本で暮らすようになり、その辺で即興ライブを行っている。 ”その辺で”というのが、重要なのだが、本当にその辺にいる。 個人的に過去2回、西新宿のビニールと、築地の居酒屋で見掛けている。 要はその辺である。 ミュージシャン(芸術家)というのは、素性が見えない事が優性に働いたりする。 わかりやすく言えば、ジョニー・ロットンとシド・ビシャス、 または、カストロとゲバラの比較のようなもので、こちらの捉え方一つなのだが、 亡くなってしまえば、素性は語られようにも語る事が出来ない。 ジミヘン、バスキアあたりも同様である。 ただ、現代を生きていると、そうゆうわけにも行かない。 boss the mcがやばいところに行った瞬間を目の当たりにする時もあれば、その逆も垣間見えたりする。 j dillaやklockなんかは、すでに語る事しかできない。 それは、まるで目の前で起きているような感覚であって、 つまり何がいいたいかと言えば、結局は、意識の中では時間を超越できないという話だ。 古い時間や、自身が体感していない時間というのは、 一定の長さを通過すると”想像する”という感覚にとても近くはないだろうか。 昔話など想像でしかなく、それが形として残るのは、共有者の数次第という事だ。 その事を危惧した結果、様々なアーカイヴィングが発展したのも間違いはない。 文字、絵画、造形、録音、録画、すべてのデータ化と検索化。 音楽や芸術に至っては、ある種、文字以上の思考表現を実現している。 ただ、アーカイヴィングの蓄積が現在に生んでいるのは、 こと日本に関して言うと、整列化でしかない。 (極単調な為、ミニマル化といったほうがいいかもしれない) 過去を一挙に”ここ”に見出す事ができれば、カオス化する事が想像できるが、 そうはならなかった。 検索には、優先順位がつけられ、おのおのにはスペックが存在し、フォルダ化が基本となった。 ※要はPCのことなのだが。。。 例えば、過去が”ここ”にあって、それがランダムに垣間みる事ができるような、 精神文学的無意識共有状態を人類の最終目的とする思想も数百年前から唱えられているが、 それを実現させるにはバグしかなく、それに伴う突然のカオス化がもたらすものは、 とても平和的であるとは思えない。 話が危なくなってきたので終了。
ニット
2009/10/19(Mon) 00:48:01
3ヶ月ぶりくらいに時間が出来た。
つい最近まで。まともな睡眠時間も取れず、 起きている間は常に思考し続けているような状況が続いていた。 必然とレコード屋も巡れず、はたまた、ネットで試聴注文する間もなく・・・。 本も読めず、美術館も行けず。酒も呑まず。 仕事だけを考えているような状態。 他に意識を向ける時間もなく、いつの間にやら時間が過ぎる毎日だった事もあり、 ストレスがどうのこうのとかそうゆう感じでもなかった。 3ヶ月も経つと世の中大きく変わる。 あやうく、鳩山政権に気がつかなかったかもしれないというような状況とでもいえばわかりやすいかもしれないが、それほど他に目を向けていなかったから、自身の事すら曖昧なままだった。 ※数人のメールがなければ、1つ歳を重ねた事に気がつく事ももう少し遅れていたかもしれない。 というような感じでまともにブログも更新していなかったが、また少しはつらつらを書けるようになる。 休日は、自然にでも触れに・・・・というのもいいのだけれど、 やはり足はレコード屋へ向いた。 1件目で新譜棚が変わり果てている状態には焦りすら感じた。(つまらない事だが本当に焦るのだ) 誰と競いあうわけでもないけれど、レコード状況というのが、もはや自己価値に比例してしまうような思考になっている為、ある種の精神的不安を感じてしまうのが空しい。 完全にものに依存しているだけである。 レコード屋はwarpの20周年でどこもかしこも盛り上がっていたが、 新譜自体は対したものはなく少し気持ちが落ち着いた。 ※そんな中ジム・オルークが超大作は必聴である。歴史的な作品に間違いない。 季節が変わり、気分的に服屋にも数件足を運んだけれど、 接客に耐えかね何も買わずじまい。 服屋の店員のただしい姿というのは何かわからないが、 セールス要素が見えてしまうと、疑問を感じてしまう。 「何かお探しですか?」 おそらく服を買いに行く人のほとんどが目的があって店に入るのであって、 この質問が正当化されているようなところもあるし、 コンタクトをとろうと思った時には有効な言葉なのかもしれない。 ただ、満面の笑みで、 「なにかお探しですか?」と不意に声をかけられ、「別に・・」と答えた時の空気感が出来たときの 無責任さが否めない。まるでこちらに否がある。(というのは被害妄想の一種なのだろうが) その後、よくいくレコ屋と服屋を回ったが、どこの店員も本来の意味でろくでもない。 商売する気すら感じない。 ただ、そんなとこに心地よさがあるのだろうか、いつまでもいれるし、 たまの会話もくだらなくていい。 どちらが自然かといえば、こちらの見方次第である。 自分が高校の時に通っていた服屋などは、国産バブル期だった事もあり、調子にのっていたのだろう、店前にたむろしている横をなんとかすり抜けて入って行くような感じである。 服屋に入るのに、緊迫感がある。(思えばクラブもそうだった) そんな事をやっていた店はつぶれてしまったようだけれど、 そんな店ばかり行ってたもんだから、「何かお探しですか?」なんて囲い込まれると、 拒否反応を起こしてしまうのだろう。 服は殺伐とした中で買うものだったのだから。 店員に薦められて買った服と、おかんに買い与えられた服はある種、同等である。 店員は、客に情報を与えればいいのであって、 「お似合いですよ」なんて言葉をかけてしまうから、おかしい事になる。 長くなったが、 これはニットを買おうとして、「お似合いですよ」なんて言われたもんだから、 踊らされてると受け取り、そのニットを購入しなかった偏屈な感覚がいつまでつきまとうのだろうとかという私的な問題の話だ。 |