”時代は、なにを買ったかではなく、
なにを寄与したか、なにを辞めたか、になっていくだろう
それこそが未来のデジタルの最後の指名だと、僕は思う。”
噂の高城剛がブログにそんなことを書いていた。(今度、関わりがありそうなのでブログをみていた。)
今に言われたことではなくて、なんだかよく分からない消費社会とやらに生きる時代の人間としては一度は意識してきたことで。
それが”デジタルの指名”と感じた彼らしい(よく知らないが)視点かもしれない。
いつの頃からかよく聞くようになった「これにあれがついていたらいいのに」という話。
(私自身、ターンテーブルとcdjは一緒にしたほうがいいと思っているのだけれど。機材整理の時、cdjの上にタンテ乗っけた際に気がついた・・)
”デジタル”の優性の一つに”アナログ”に生じる劣化をなくすというものがある。
ケーブル50本を1本にできたりするって事にも繋がるし、そんなことはやられてきている。
デジタルを扱う人間の発想がデジタルではないということか。
デジタルを一つとして捉え、それを並列にしてしまおうとする。
これでは馬鹿だ。
タンテにcdjの発想だって馬鹿だ。
実際はタンテもcdjもなくしてしまえばいい。シンプルだ。
なにを流すか。pcか。
そうじゃない。
音楽が流れればいい。
オーディオもいらない。楽器もいらない。
音楽もいらない。
シンプルだ。
なにかに凝縮されてシンプルにされていく姿の極致は想像もつかないが、
今考えるだけのことを思うと恐ろしい。
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