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classic→?
2010/01/25(Mon) 02:12:39
約3年間使用した仕事用PCを返却する事になり、書類の整理に追われる。 PR
熱
2010/01/18(Mon) 00:44:09
体調不良が続くが、大きく崩れはしない。厄介である。
身体を動かせばと思い、近所に昨年出来たロッククライミング施設に行ってみた。 壁を登るあれである。 初登りということで、インストラクターが多少の事を教えてくれる感じになったが、 ただ壁を登るなら対した事はなかったが、長時間ぶら下がっているのがつらい。 登っては指がやられの繰り返し。 2時間ほど施設にいただろうか、込み合ってきたのと、指が限界に達していたので帰宅。 体調不良は続いていたので、家から一歩もでない意思を固めるも、 友人が電話をくれて街へ誘う。 ICCで”可能世界空間論”という展示が開催されたばかりだったこともあり、新宿へ出た。 感想を書きたいところだが、今現在熱が出てきており、頭ががんがんする為、説明することが苦痛である。 ということで省略。 オープンスペースに展示されていた、↑が印象深かった。 光と影と周波数で多チャンネルラジオから音声を発生し、 範囲内を自身で動き回ることでまるで、音響作品のようになる。 夜、適当な店で夕食をしていると手相の話になった。 ・・・・ 体調不良の為次回。
socc
2010/01/13(Wed) 11:51:41
あと一週間もすれば、ちょっとした環境変化がおとづれるというのに気持ちが平坦なままだ。
安心感もなければ、不安感もないし、すっきりしているわけでもない。 ※しかし珍しく少しばかり、やる気が芽生えているようだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先週末、渋谷地区リーグ社会人サッカーの練習試合に参加する機会あった。 数年ぶりのフルグラウンドは、なんとも言えない。 参加したチームは、前年に1部昇格したわりといいチームだった。 試合開始早々、身体が重い事に気がつく。 脳内イメージした動きに身体が遅れをとっているのがよくわかった。 昔は走るサッカーをしていただけに、持ち味が失われている感じが否めない。 自然と、ポジショニングのみを意識したサッカーに切り替えたが、 相手チームがそれを許さない。 所謂カウンターチームだったので、裏へ裏へとボールが飛んでくる。 ひたすらボールを追っているうちに、肺が圧迫される。 身体がこうなることは、日々の怠惰な生活から予想が出来たが、 試合中、意外な事が意識を妨げた。 人の声である。 このチームに参加したのは初めてで、顔見知りが2名しかいない中での試合、 自身がボールを持つと、周囲の声のほとんどがこちらに届く。 それぞれの声質がわからない為、敵味方の支持が入り混じっているだけで、もはや邪魔なだけである。 突然、チームを組んで試合をしても、こうゆう事がおきるのだと改めて気がついた。 それと、言語そのものにも手間取った。 このチームの場合、それぞれがある程度のサッカー経験をどこかで積んでいる為、 それぞれが以前のチームで使用していた言語になっている。 大概は理解したが、数回意味不明な言語が飛び交っていた。 所詮日本人の集まりだから何とでもなるが、これがスペインリーグのような多国籍リーグでのピッチ上となると、 どうなるのか。 国内の場合、パスをもらう際のそれは「ヘイ!」。 なんとも思っていなかったが文字にするとなんだか気はづかしい。 この問いかけをいつの頃から始めていたかといえば、それこそ幼稚園の時から使用していたようにも思う。 その時は、指導者もいなければ、Jリーグもなく、特にそれを得る情報源はなかったように思う。 自然と身につくものなのだろうかと問えば、そんなこともないはずである・・・・。 要は、今年はサッカーを続けようというだけの話。
キャバレーヴォルテール
2010/01/07(Thu) 20:22:55
秩序=無秩序、自己=非自己、肯定=否定
1918年に発刊されたdada3の中の「ダダ宣言1918(※トリスタン・ツァラ著)」の一文である。 適当に並べただけなのに、やけに面倒で哲学的だ。 ダダによる近代の成果を否定、それを解体する反芸術活動はどうも思ったより早く衰退していたようだ。 早い段階から予兆が見られたに違いない。 1916年2月5日、フーゴー・バルが経営していたキャバレー・ボルテールで行われたイベントで、 詩の朗読をはじめ、その3日後の8日にDADAの語を発見。 物事の始まりはこんなもんなのか。 第一回ダダの夕べが開かれ、「アンチピリン氏の宣言」(※所謂はじめのダダ宣言)を朗読。 このような形でツァラの活動を追っている文献はいくらでもあって、それぞれが細かく評論されているようだ。 ここでもやはり、バルが経営したキャバレー・ボルテールが、活動の中心になったようだ。 数ヶ月間の間だったようだが。。。。 翌年の1917年にバルはチューリッヒからベルンへ移り住んでいる。 ツァラを中心としたダダ運動が、いっそう具体化し過激になっていったからだと言われている。 とわいえ、その頃にはバルの名前もある程度定着しており、隠者、聖者などと噂され、 極貧の中、政治論文やキリスト教研究に没頭し、若くして生涯を終えている。 なぜダダ運動をバルが抜けたかという点について、あまり詳しくわからないが、 ダダが分かれていったどの方向ともバルの方向性は違っていたようだ。 ツァラやブルトンのような文学方面、ヒュルゼンベックの過激政治、デュシャン、マン・レイによる造形芸術。 そんな中、バルはキュビズム風衣装での音声詩朗読に代表される”全身体的表現”であったようだ。 一般が認知しやすい”芸術”という括りに一番近い存在だったのかもしれない。 ダダが語られるに当たり、どうしても芸術そのものよりも活動内容トピックにあがってしまいがちだが、 それは、当時も同じ事だったかもしれない。 ダダは作品ではない。ダダは何も意味しないと書いたのはツァラが1918年に書いたものだ。 1916年バルが意味しようとしていたダダの方向性は、どのようなものだったのか。 |