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鈴木幸希
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2025/02/22(Sat) 18:42:05
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2009/01/20(Tue) 20:46:23
 ”服はただの布”と友人が言っていた。

付加価値を無視すると、
物質の大概がこれと同意に当てはまることが多い。

食の面でみても、
ファーストフードも、高級料理もなんらかの物体でしかない。
※排泄される事でいえば、また別の角度からみることもできるかもしれない。

音楽でいえば、音自体は物質ではなく、
それを奏でる媒体や楽器側が物質ということになる。

レコードなど、ただのゴム版でしかない。

音楽がデータで流通するようになり、
そもそも、ただのゴム版や、ただのポリカーボネートである前に、
存在する意味すらなくなってしまってたりする。

過去にもそうなってきた物質は多いはずだ。
※工業系中小企業が一時期消えていった事がこれにあたる。

時代性や進化によって必要性がなくなった物質は、消えてしまう。

ここでいう、服はいつまでただの布でありえるのかもわからない。
人間自体のデータ化なんてことになれば、
服はいらないかもしれないし、
温暖化が曲がった形で進行し、
服の種類が減ってしまう事もあるかもしれない。

個人的には”服がただの布”という観点で見ることに違和感を感じ、
それは自分を着飾るという点とは別の意識からくるものだったりす
る。

ほぼ同じ素材、同じデザインの白いシャツがあったとして、
それが好きなデザイナーによるものとそうでないものがあったとし
たら、
好きなデザイナーの方を選ぶ。(※
金額が大きく違っていたとしても)

きっと、それがただの布ではなくなっているからだ。

服を作っている人間には、猟奇的な人間は多々いる。

そんな人間が身体の形状という、そもそもの形式に縛られながらも、
その中で表現をしていく。

別に身体の形状にこだわりを持たなければ、
表現方法はきっと変化してくるのだろうが、
着るという事に意味を見出しているから、
服という形を選んだに違いない。

音楽も絵画も同じ。
なんらかのフォーマットの中でそれぞれが動いている。
物質という形を選ぶ事でフォーマットにぶち当たる事は言うまでも
ない。

話がそれてきた。

服が布であり、レコードがゴムである事は、
ある一方の見解でしかないという取り留めも無い話。

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無題
2009/01/09(Fri) 23:13:06

何を書こうなんてまったく定まらないうちに、タイピングをはじめる。

基本的にはいつもそうだ。

これが習慣というやつなのだろうか。
ふとした瞬間、習慣が訪れている。 別に繰り返しの日々を過ごしているわけでもない。
年始早々、その日その日で脳の使用箇所が変動しているのではないかというくらい、
多くののつまらない事を考えている。※使用している部位はおなじなのだろうけれど。

特に今年の目標に定めたわけでもなく、書物を読み終えたわけでもなく、
急に身体は脳で動くという事について異常に意識して9日目。

指令を出せば身体は動かせるのである。

まず朝起きるところから、はじまるわけだが、
長期休暇の夜型体質が抜けず、気温が低い状況下でも、脳が指令をだせば身体は動くのだ。

もちろん、このままフトンに入って後5分間・・・・、という思考もある。
同時にいくつもの思考が芽生えているようで、実はめまぐるしく思考が転換しているだけなのだ。

無意識化から意識化へカットインする”寝起き”には、なおさら思考転換が極端になってくるように思う。

別に後5分寝る事が悪いわけではない。
しかし後5分寝る事にメリットを見出せない。

それは、まるで欲求にメリットがないと言っているようでもあるけれど、
持って生まれたものだから、意味がないわけではない。

食欲にしても性欲にしても同様であることは言うまでもない。

それにしても性欲というヤツは、いつ頃から芽生えたのか。
食と睡眠は自意識のない幼児期から間違いなく存在する。※それに反していると”病気”ということになる。

自身で覚えている限りの性欲の目覚めは、保育園の頃の話。
好きだとかそうゆうことを覚える前に保育園の先生を”食べたい”と感じていたのである。
※食欲のそれとはまったく別の感覚で、いわゆる”あの子を食べたい”という俗語とも別の話、
要は性的カニバリズムのことであって、ハンニバルのそれと同意である。

その間隔は小学校低学年まで続いてしまうが、
性教育が成されるか成されないかという時期に、やけにスケベーな転校生がやってきて、
様々な事を教えてくれた。
※今現在の知識となんら変わらないといえば、その時にどれだけの事を教わったかが容易に想像つくだろう。

その転校生のおかげ?でカニバリズム的幻想は払拭されていったわけだけれども、
転校生のお父さんの転勤がなければ、カニバリストとして、生きていたかもしれない。

要するに欲求の方向性は、なんらかによって変化していくものなのである。
性欲が”食する”ということでしかなかった自分が、一般的性欲へと回帰したのは、
それが未知だったからに違いない。

運動不足を解消する為に、キントレを始め、いつしかトレーニングがやめられなくなってしまう現象や、
ホノルルマラソンを走りきった安田美沙子が走らずにはいられなくなってしまったと発言している事と同様。

欲求の方向性が3大欲求から外れていたとしても、それは欲求でしかないから、
なぜ?と問い詰めたところでろくな返答はない。
自身でいうスクラッチがそうだ。ミキサーとレコードがなくても手が動いている時がある。

誰でもそうゆうものがある。野菜を切り刻むのがやめられなかったり、
なにかを描き続ける事がやめられなかったり。

思考の変化を欲求レベルまで持ってこれるのであれば、それに越した事はない。

それには未知との遭遇が必要なのかもしれないが。

 

無題
2009/01/06(Tue) 00:30:37

5年前の正月に三鷹ではじめたブログが今も続いている。

飽きっぽいところもあるが、レコード収集しかり、トラック製作しかり、続くもんは続いているようだ。

年末のライブは不覚にも深酒でよく覚えていないが、悪くはなかったらしい。
※今年は無難すぎたか・・・。

記録に残すつもりが、録画も録音も忘れていた。
※そのほうがいいこともある。

これからは自身の音に集中してみようとライブが終わってから強く思った。
※いい影響に違いない。

また、どこかで演りましょう。


年始、スノボに行ったときの事。
思考が身体を静止するのか、身体が思考に訴えかけているのか、
という事を考えながら滑っては転んでいた。

普段は身体だけを動かしているもんだから、板と常に接触している状況に違和感があった。

運動神経なんてものは、思考と身体のバランスでしかない。
気持ちだけでも、体力だけでも失敗する。

体力の低下は基より、身体と思考のバランス感が劇的に変化しているのがわかった。

バランスの回復が大きな目標になるキッカケができたのだ。

身体を動かすのは、思考でしかなかったりする。
目覚めに関してもそうだ。

身体の限界は思っている以上に遠いはず。

cd
2008/12/30(Tue) 20:42:52

年末は、東京から宇都宮、仙台に立ち寄り、地元岩手に帰省。
どこでも不景気の話が中心である。

そんな事はどうでもいいと、酒を浴びて良い、お年を。

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