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鈴木幸希
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2009/02/15(Sun) 23:58:43
 古い友人の結婚式があり、バレンタインデーは岩手に帰っていた。

式での挨拶、余興を経験し、いまさらながら大人になったような感覚である。
※あくまでもなったようなという話である。

2年間ルームシェアしていた事もある新郎は、長い付き合いだけれど特に趣味が合うわけでもなく、
多くの行動をともにするわけでもなかった。

なんなら互いに接点の無い友人ばかりで、それを紹介しあうような事もなかった。

それは、単純に気が合わないからだろうと、互いにどこかで思っていたからに違いないし、
互いにプライベートに興味を持ち合う事もなかった。

会う時は、2人だけの事のほうが断然多く、話す内容はといえば、ごくごく身近な事。
例えば、恋人の事や、親の事、学校(仕事)の事といった感じ。

そうゆう話を表だってする事に羞恥心すら感じていた学生の頃は、
彼くらいにしかそんな話をできなかったのだろう。

別に私は約束を守るような男でも、良きアドバイスをできるような男でもない。
だまっているか、「へー」と一言付け加えるのがやっとの男である。(頻繁に騙された。とか言われる)


彼は過去を辿れば辿る程、どこか曲がった性格を持ち合わせており、表面は決していいとは言えない男である。
※失礼な話だが・・・。

しかし、一緒に何も考えずに短パンでタイヤ山に基地をつくった男の性格がどんなモノであっても、どう変化しても、関係のない話なのだ。

人が成長して得る性格など、上っ面や受け売りでしかなく、
1年もあればどうにでもなるものなのだ。

ある曲が変える事もあれば、1冊の本が変える事もある。
自己が発する言葉、主張は、過去の産物の選択肢でしかない。

そう考えると、何一つ考えなんてなかった頃に近くにいた人間というのは、
不思議なもので、ただただ時間を共有していただけというある種の亜空間的な感覚ですらある。



結婚式の話から大きく離れた。

2人で暮らして行こうというのがどうゆう事か、想像もつかないのが個人的実際問題だが、
そこに執着をもっているわけでもない。
なんならずっと1人で過ごしている事に、不満はない。

ただ、過去に出会った数少ない尊敬する人物が、
「一人の孤独は大体経験した。2人の孤独というのがどうゆうのもか経験しておいた方がいい」
と仕事中に半笑いで言っていた事が頭を過る事がある。

今日も、昨年結婚した友人の家に上がり込んでいて思ったのだが、
まぎれもなく2人の家なのである。

よくわからないが空気がそうなのだ。

cobraが暴走すれば、反省するという繰り返しすら、2人の家だからという場所がそうさせたのであって、それが今はなき蔵の中であれば、空気がよどんでいく一方だったわけである。

2人になるという事は、なんらかの変化が訪れる事は間違いなく、
それが経過していくと、2人の孤独という事も経験するに違いない。

ただ、結婚の理由がそんなことであるならば、しないほうが懸命であろう。


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メディア芸術祭
2009/02/05(Thu) 22:47:40
文化庁メディア芸術祭が国立新美術館で開催されている。

メディア芸術の展示会というか、若手が事前に応募して、受賞者が展示されるというだけ話。

あくまでメディアにしぼった事と、部門に分けたあたりが官庁のお仕事といった感じ。
※大概の事に関して、分類するスタイルは好きなのだけれども。。。

六本木を通りかかり、駅でポスターを見かけなければ見逃すところであった。

このように、なににしても物事を見逃す事が多く感じられるようになってきた。

個人で収集したい情報が間に合っていないのと、記憶力が一切ない事と。

記憶するという作業が脳内でどれだけの負担になっているかわからないが、
他人と比較すると圧倒的記憶力のなさを感じる。

それが日常に近ければ近い程、なおさらである。
※結果的に日用品がなにかしら不足している事が多々ある。歯磨き粉がないとかそうゆうの。

いかに日常に重きを置いていないのかが見て取れる。

自身の生活の事よりも、他方に意識を向けてしまう微妙な体質。

頭の中に”歯磨き粉を買わねば”という記憶があるとして、それを思い起こした時の無駄感。



さっき、頭の中が真っ白になるという減少を、何もせずと体感し、
記憶がぶっ飛んだかと思ったので書いただけ。

いやー真っ白だった。

日記
2009/01/31(Sat) 22:46:06
特に約束の無い休日。

前日、朝方まで遊んでいた事もあり、昼に目が覚めた。

 出来かかっているトラックがあったので、PCに電源をいれるも、気分がのらずシャットダウン。
昼に出来上がるような音楽はきっとつくれないのではないか・・・。

貸し家の更新料を支払いはなければならない用事があったので、とりあえず外にでた。
(2年以上住む貸家ははじめてだ。気にいっているわけでもないが嫌いじゃない。鎌倉に住むつもりで探しにいっていたのだが、そもそも鎌倉自体の魅力が半減していたようにも思う。)

無目的の休日は、近所の美術館に限ると小山登美夫ギャラリーへ向かう。
木場にある倉庫街を歩いているとギャラリーが密集している少し変わった場所にあるギャラリー。

マンフレディ・ベニナアティという作家。
ノスタルジックアブストラクションとでもいえばいいのだろうか。

若干の悪意も感じられ、いい具合の作品を観れた。

MB.jpg






















ギャラリーを出ていつもなら、現代美術館へ向かうところだか、
エントランスの改修工事とやらで3月まで休館している。

木場で深川飯を喰らい、中野へ。

中野はFATBROSにいってパーカー購入。
店員は話は話が合いそうで合わない、いい人。

中野はここしか用事がないのだけれど、ついついブロードウェイへ潜入。

秋葉が清掃されて、いわゆるあの辺の店が集中的にブロードウェイへ出店するようになったのは、
いつの頃からだろう。
相変わらず4階は日本のカオスを感じる事が出来る。

悪い夢を見た後は、その足で新宿へ。

手帳を買う用事を思い出し、ハンズへ。
2月にある友人の披露宴で着ることになるであろう衣装コーナーを横目に、
手帳コーナーが全面に押し出されていたので、人ごみの中、手帳をめくり続ける。

手帳というヤツは、1年は必ず使う少し特殊なものであるからして、
誰もがいい加減になれない、手帳コーナーがこんなに殺気に満ちているとは思いもしなかった。

さんざん探しまわって見つけたのは、結局去年と同じ中身のカバー違い。(24時間対応のやつ)

21時や22時で終演を向かえ、朝8時からスタートしている手帳がほとんどだが、
全く無意味ではないか。

手帳を見ながら、時計型のスケジュールメモがあればいいのにと思ったが、1日ごとに円が2つになってしまい面積をとってしまうので、脳内却下された。

手帳を買った後は、例のごとく、レコ屋へ。
円高の影響がやっとレコードにも到来し、輸入版が多少安く手に入り、
そのせいもあって今年に入ってからから買うペースが伸びている。

買い過ぎを反省しながらも、その帰りに立ち寄った新しい服屋でカバンとニット、マフラーを買う。

消費癖があるわけではないが、
探しものが無いときに限り、いい物が見つかる。

今日などは手帳を買って帰れば良かっただけのものを、両手いっぱいの買い物袋である。

家に帰り、怪しい手料理を食い、今からトラックのまとめ。
※今年から料理を始めたのである。

見事な日記。
修正
2009/01/26(Mon) 00:23:30
 10年程前に発刊していたいインターコミュニケーションが近所の古本屋に置いてあったので、
3冊購入した。

※NTTが出版しているテクノロジーがどうのこうのと書いてある書物。

その1冊にヴァーチャル・アーキテクチャーが特集されていて、適当に流し読みをしていた最近。

ヴァーチャル・リアリティを体現しようと、
各方面で研究が成されていている時代背景が全編を埋め尽くしていた。

ヴァーチャル・リアリティというと仮想現実、疑似体験と同意であり、
シュミレーションといわれる言動や、物事に当てはまる。

数年前、セカンドライフがヴァーチャルシティを完成させ、
数名の企業や個人がその場に集合した。(シムシティというゲームがその以前にあったが、共有という面で、ヴァーチャライズが不完全であった。)

セカンドライフの完成度は高く、ヴァーチャル・リアリティをある種体現できたツールであったかもしれないが、操作性という意味で大きく課題が残っている。

コントローラ上である一定指令を与えれば、おおよその人的動作は可能である。(※飛ぶ事もできる)

ただ、そこにリアリティがあるかといえば、別の話。
ジャンプという動作においては、ファミコン上でマリオをジャンプさせている時のほうが、
よっぽどリアリティがある。
その証拠に小学生の頃、マリオをジャンプさせながら、自らの身体を浮かしてします友人が多々いたように思う。(任天堂がWIIを開発できた、そもそもの根源はマリオのジャンプの躍動感にあるのではないか。)

昨年、ある仕事でメタルギアソリッドに触れる機会があった。
操作に慣れていだけなのだろうが、動作にリアリティを感じる事はできなかった。

人が動く時というのは、ほとんどが無意識である。
歩行に例えるとわかりやすい。目の前に障害物がある時以外、歩行を意識する事はまずめったにない。

ヴァーチャル・リアリティの課題はいつもそこにある。
無意識の部分を意識的に操ろうとする結果、反応が遅くなり、時間がずれ、空間的体現に支障をきたしてしまう。

ヴァーチャル・リアリティが歩んできた道は、おおよそ検討違いということになる。

ただ、たかが10年前に研究されていたそれは、少し違っていた。
未来を想像してのヴァーチャルなのだ。

現在でいうと、現実があって、それを仮想化するという本来の意味での研究がなされているが、
(googleしかり)、当時は未来仮想という若干ずれた観点での研究が成されていたようだ。

端的にいえば、サイバーのそれである。

サイエンスフィクションとでもいえばいいのだろうか。
よっぽど魅力的である。

未来を曲がった形で想像できなくなっている(※表だたなくなっている)原因はなんだろうか。

どちらかといえば、修正作業ばかり進めているような気がしてならない。
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