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鈴木幸希
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キャバレーヴォルテール
2010/01/07(Thu) 20:22:55
秩序=無秩序、自己=非自己、肯定=否定

1918年に発刊されたdada3の中の「ダダ宣言1918(※トリスタン・ツァラ著)」の一文である。
適当に並べただけなのに、やけに面倒で哲学的だ。

ダダによる近代の成果を否定、それを解体する反芸術活動はどうも思ったより早く衰退していたようだ。
早い段階から予兆が見られたに違いない。

1916年2月5日、フーゴー・バルが経営していたキャバレー・ボルテールで行われたイベントで、
詩の朗読をはじめ、その3日後の8日にDADAの語を発見。
物事の始まりはこんなもんなのか。

第一回ダダの夕べが開かれ、「アンチピリン氏の宣言」(※所謂はじめのダダ宣言)を朗読。

このような形でツァラの活動を追っている文献はいくらでもあって、それぞれが細かく評論されているようだ。

ここでもやはり、バルが経営したキャバレー・ボルテールが、活動の中心になったようだ。
数ヶ月間の間だったようだが。。。。

翌年の1917年にバルはチューリッヒからベルンへ移り住んでいる。
ツァラを中心としたダダ運動が、いっそう具体化し過激になっていったからだと言われている。

とわいえ、その頃にはバルの名前もある程度定着しており、隠者、聖者などと噂され、
極貧の中、政治論文やキリスト教研究に没頭し、若くして生涯を終えている。

なぜダダ運動をバルが抜けたかという点について、あまり詳しくわからないが、
ダダが分かれていったどの方向ともバルの方向性は違っていたようだ。

ツァラやブルトンのような文学方面、ヒュルゼンベックの過激政治、デュシャン、マン・レイによる造形芸術。
そんな中、バルはキュビズム風衣装での音声詩朗読に代表される”全身体的表現”であったようだ。

一般が認知しやすい”芸術”という括りに一番近い存在だったのかもしれない。

ダダが語られるに当たり、どうしても芸術そのものよりも活動内容トピックにあがってしまいがちだが、
それは、当時も同じ事だったかもしれない。

ダダは作品ではない。ダダは何も意味しないと書いたのはツァラが1918年に書いたものだ。

1916年バルが意味しようとしていたダダの方向性は、どのようなものだったのか。
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