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鈴木幸希
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2024/03/19(Tue) 15:14:27
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不感症
2010/09/04(Sat) 03:01:46
「たまには針を落としてやってくれないか・・・。」

音楽との距離感に対して、不安に近い感覚が付きまとう事が少なくなったのは、
単なる不感症でしかなかった。

これも必然か。

レコードが大半をしめる部屋で夜な夜な荷造りをしていれば、
スムーズに事が運ぶこともない。

約4000の円盤の溝に片っ端から針を落としていると、
そのうち針先にのみ意識が向かうようになっていた。

約4000のうち、9割がゴミ同然。

数年前、「1枚1枚に敗れた夢が詰まっている」という言葉を聞かなければ、
レコードと共にある意味合いは薄れていたかもしれない。

自分がその1枚に針を落とし、なんらかを感じて、
それを聴き続けたり、もう2度と針をおとさなかったり、
”自分が針を落とした事”でその瞬間の意識が大きく変動する。

言葉が意味を持っているという説が、彼を含んだ詩人やもういない作家の数名にしか当てはまらないと
すれば、リリックや歌詞は音でしかないことがほとんどで、
それを嫌った結果ここにあるのはインストが中心となり、まれに”響き”という意味合いで、
”言葉”が混じっている。

なにを言っているかわからなくてもこのまま続けよう、独り言でしかない。

落ち着くにはまだ早すぎた。心の闇の怖さは自身もわかっていなかったはずだ。

きっかけはいくらでもあった。

これも必然。

ステージは、変わっていなかった。

進化ではなく深化に向かうところにある。

ステージを変えたのは、周囲だけだ。

まだ、ここにいよう。


すべて音楽の話だ。

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キャバレーヴォルテール
2010/01/07(Thu) 20:22:55
秩序=無秩序、自己=非自己、肯定=否定

1918年に発刊されたdada3の中の「ダダ宣言1918(※トリスタン・ツァラ著)」の一文である。
適当に並べただけなのに、やけに面倒で哲学的だ。

ダダによる近代の成果を否定、それを解体する反芸術活動はどうも思ったより早く衰退していたようだ。
早い段階から予兆が見られたに違いない。

1916年2月5日、フーゴー・バルが経営していたキャバレー・ボルテールで行われたイベントで、
詩の朗読をはじめ、その3日後の8日にDADAの語を発見。
物事の始まりはこんなもんなのか。

第一回ダダの夕べが開かれ、「アンチピリン氏の宣言」(※所謂はじめのダダ宣言)を朗読。

このような形でツァラの活動を追っている文献はいくらでもあって、それぞれが細かく評論されているようだ。

ここでもやはり、バルが経営したキャバレー・ボルテールが、活動の中心になったようだ。
数ヶ月間の間だったようだが。。。。

翌年の1917年にバルはチューリッヒからベルンへ移り住んでいる。
ツァラを中心としたダダ運動が、いっそう具体化し過激になっていったからだと言われている。

とわいえ、その頃にはバルの名前もある程度定着しており、隠者、聖者などと噂され、
極貧の中、政治論文やキリスト教研究に没頭し、若くして生涯を終えている。

なぜダダ運動をバルが抜けたかという点について、あまり詳しくわからないが、
ダダが分かれていったどの方向ともバルの方向性は違っていたようだ。

ツァラやブルトンのような文学方面、ヒュルゼンベックの過激政治、デュシャン、マン・レイによる造形芸術。
そんな中、バルはキュビズム風衣装での音声詩朗読に代表される”全身体的表現”であったようだ。

一般が認知しやすい”芸術”という括りに一番近い存在だったのかもしれない。

ダダが語られるに当たり、どうしても芸術そのものよりも活動内容トピックにあがってしまいがちだが、
それは、当時も同じ事だったかもしれない。

ダダは作品ではない。ダダは何も意味しないと書いたのはツァラが1918年に書いたものだ。

1916年バルが意味しようとしていたダダの方向性は、どのようなものだったのか。
ボリビア
2008/09/13(Sat) 01:50:49
ある程度検討をつけた”こいつ”が先か。
無意識に飲み込まれる憂鬱のが先か。

コインは積み重なったはずだったな。
 
肉眼で感じる前頭葉の動きは、
吐いて捨てたはずの、あの時のカルマだ。

表裏一体。

とぼけるな、表から帰る影は決して、裏手にまわることはないはずだ。

水の動きにも似たサイプスは、
ノーランコンフィデンシャル ボリビア



nz
2008/07/25(Fri) 00:54:56

連鎖する青白い道を、
一心不乱に追うと、
そこには、いつもの空間が、じっと佇んでいる。

まるで、こちらの心情を読み取っているかのようだ。

精神と物質が別物として捉えられているのは、
宗教と科学の衝突にみかねた、誰かの哲学からきているらしい。

「いま、あの影と白の狭間をチラついたのは、なんだ」

10年前から変わらないと思っていた湿気た面も、
3年後には忘れるらしい。

17個の扉はどれも開かない。

「いつからそこに居たんだ」

灰は全身のそれを落ち着けてたが、それは麻痺に過ぎなかった。

いつの秋だろう。

決して、サイクルではないことは知っているが、
それを望む心情に歓喜することを信じて疑わない。

問い続けるということを、しなくなった。

先がみえてもいないのに、しなくなった。

「また、同じ事をくりかえすのか、また、やり直すのか、また、変化するのか」
 

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