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column4 : dada宣言
2006/12/12(Tue) 21:25:35
dada宣言なんてタイトルにしてしまったが、なにもここで自分が宣言するわけではないのです。 「dadaは何も意味しない」 上記の一言だけみたところでなんのことかなんてわかりません。 dadaという言語は、発明された言葉ではなく、ルーマニア語で2重肯定を表すものだったようです。 ところでヒュルゼンベックが(医学生、詩人)だというのをみて気がついた人もいるでしょうが、彼らはこのとき10代~20代前半の若者です。
←1919年のツァラ少年
その年代の若者がカフェに集い、悩み、なにかを始める。 この観念が具現化(具体化?)されるのは2年後の1918年。ツァラの「ダダ宣言1918」に上記に書いた「dadaはなにも意味しない」という言葉が掲載されてからのことです。 dadaという言語自体を通常、言語が持つ意味作用から切り離してしまったわけですね。
←日本語版dada宣言(版元の竹内書店という出版社が潰れたので書店では手にはいらないそうです。僕は本八幡の古本屋でみつけました。多分ラッキーな出来事なのです。)
dadaについて調べていると矛盾点が多く生じているのがわかります。 「dadaは共同体への不信から生まれた」 現在自分達がもっているdadaのイメージはツァラによる上記にのような過激な発言によるものが大きいことがわかります。dadaismという言葉を使用することで、「私は既成概念から外れています。」と宣言しているようなことになってしまっています。要はpunkなんかの発祥となんら変わりない意味で捉えられてしまっているわけです。 「dadaはなにも意味しない」というツァラがはじめに掲げた宣言がその後のツァラ自身の発言をも被い尽くしているのならば、以後の登場したdada的表現すらなにも意味しないことになりますし、それ自体がdadaの消滅を意味しているということもわかります。 「dadaはなにも意味しない」 「なにも意味しない」という言葉を聞いてマルセル・デュシャン(結局この人・・・)をおもい浮かべる人もいると思います。
ピカビアは当時パリ、バルセロナ、ニューヨークに「391」という雑誌を発行していたこともあり、ニューヨークのデュシャンやマン・レイと繋がりがあったようで、ピカビアを通じツァラはニューヨークのアーティストと繋がることになります。
←デュシャンとマン・レイ
その後dadaは各地にものすごい勢いで散らばりました。 ツァラはピカビアの誘いでパリへ移り「リチェラチュ-ル(文学)」という雑誌を通じて新しい言語の可能性を模索します。 1920年のあたりは世界中にdadaが広まった全盛期といえます。(しかし1920年代中頃には衰退したとされいます) 現在は「意味がないから」と片付けてしまうことが合理主義とされているようなところがありますが、意味をなさないことが生んできたものが自分達に与える影響はとてつもなく大きいということに気がつかないといけないかもしれません。 PR |