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鈴木幸希
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細分
2006/12/26(Tue) 23:47:33

light_004.gif

 

←サーラ・エクストロン 「Grotesque & Arabesque」より

 

ガーデンプレイスの東京都写真美術館に行き、「光と影」展を観て来ました。

展示会のサブタイトルに「はじめに、ひかりが、あった」とあるのですが、そのサブタイトルに考えを向けながらの鑑賞をなりました。

展示会自体からはとくに感じ取れることはなく(白黒のコントラストになにかを見出すことができず)、30分もしないうちに会場を後にしました。

一点あげるなら、サーラ・エクストロンの知らない作品が観れたことsaara_tn.jpg

 

 

 

フィンランドのオバちゃんはかなりの親日家で日本でも公演などを数多く開いています。(子供向けに)

作品に植物をよく使用する人で、写真だけではなく、映像やインスタレーションも行っています。

有機的な素材を使用し、成長から退化までのプロセスを実験的に用いた映像作品は、生と死のイメージをモチーフにしているといいます。 以前観た映像の素材はバクテリアを用いたものでした。

光と影、生と死、卵と生体、躁と鬱・・・。

二極化されるものの割合や発生が議論されている様子は、それこそ電車内でも喫茶店でも行われますが、この類の事にあまり馴染めずにいます。

言葉は物事を分裂させる特性を持っているのはいうまでもなくて、その良い例が身体です。私達の身体にはあらゆるところに名前がついています。どこからが喉でどこからが顎か・・・。そんな疑問をいだく以前に、喉とは何か?顎とは何か?ということにはなりません。

以前、友人はプラモデル作る時、「説明書を見なくとも作れる」と言っていました。

私達が言葉によって分解された身体をパーツとして認識しているが故の発言でしょう。

つい先日も新宿でバラバラの遺体が発見されたようですが、「手」「足」などバラバラの部位が紹介されていたのを聞いて不思議に思いました。
人をバラバラにするということは、通常の人間なら精神状態が安定しているとはいえないはずです。そんな精神状態においても身体をパーツとして認識しているがゆえに、手とされる部分を切り、足とされている部分を切る。別にどこをどう切ってもゴミ袋に収まればよかったはずです。
切った奴がはじめからイカレテいても尚更のこと。

バラバラにするという発想自体、言葉が生んだものかも知れません。

言葉はどこまで細分化できるのか。

音楽家はジャンルで分かれ括られる事を拒みたがる人が多いですが、拒むくらいなら括られるようなもん作るなと日々思います。

言葉で表すことも細分化もできないものに意味を感じるのはいかかでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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