様々な環境変化や自身の悪態、日常のタイミング的なものが重なり、約2ヶ月ぶりにmy pcからの更新です。
異常なスピードで日々が進んでいたので2ヶ月で何か心理的に大きく変化をしたか?というとそうでもない・・・とは言えません。だいぶ変化しているのを感じます。
今は、経験したことがないほどの時間経過高速化が自身の中で進んでいた事を、何が原因か考えていたところです。
自身が表現者ではない(なりえない)事からくる欲求の無方向性。
上記の表現者とは、「なにからも誰からも生かされていないpurist」のことを指しています。(この言葉自体を曖昧に思うかもしれませんが、ニュアンスの問題になってしまうので・・・)
自己(共通でも可)心理表現を行っている知人、友人、他人は周囲に5万(10人くらいか)といるが、puristは、なかなか見当たりません。(”ピュア”に”リスト”を付けたこの英単語本来の意味からすると別のいい言葉があったかもしれない)
それは単純に年齢(生きて考えた時間)を重ねたことからくる、”実際的必要性”から目を離すことが容易ではなくなったからではないかとおもったんです。
こと自身に関しても同様で、実際的必要性のない音楽製作を行うことがあるが、そこに自身の創造性が排出することはいままで経験したことがないわけです。
そもそも”自身の創造性”とはなにか?
自身で創造したことがいままでにあったか?
・・・・・ない笑
もしそれに近いものがあったとすると、それは”記憶”のことです。(DNAの話はややこしくなるので抜きにして)
あたりまえの事だが、現在(いまここ)以前の、思考の集合や断片で”創造”という”幻想”を作り上げています。(それ以外にも”偶然”や”認知”なんかもありますね)
要は自身の場合、創造からの表現を、本来表現において意味をなさない自己アーカイヴィングから形成していることになります。
アーカイヴィングが表現において意味をなさないと書いたことに疑問を感じるかも思いますが、それはアーカイブを具体として捕らえた時に、それは1冊の本と変わらないという解釈においてなので、”記憶からくる影響”とかそうゆうことはここでは無視しています。
そうなってくると重要なのは、”記憶の形をどのように表現の形にするか”ということになります。
辞書で調べたときに”表現”は、自己を形成している内面を表に現す方法という感じになっているので、一般に”表現”をすると言う行為はこのことに当たると思います。(自身の思う表現の形はもっと簡素でpureなものなので、納得がいかないのですが)
記憶はとても現実的(これも個々で定義が違っている)なものです。自身ではコピー機とスキャナーに近いものがあると思っています。
出力の際は色付け(加工)もできるし、数を増やすこともできるが、内部ソフト(一般にこれが創造力と言われる部分かもしれない)は制限があるかのように、原型を崩すことをしないわけです(できなくなっている)。
バグがでても修正しようとするか削除してしまう。(悪意の有無の問題でもない)
バグが生じた場合、例えば不意にどこかで隣に座ったジェントルマンが手をつなぎ踊り狂いはじめるとかでもいい。それを受け入れるか受け入れないかは何によって判断しているのか。
ジェントルマンが電車で隣に座っていたのなら、なんとしても避けたい。
ジェントルマンがやばい音楽が鳴っているクラブかなんかで、隣に座ったのなら、まー受け入れられる(かもしれない)。自身の場合はこんな感じです。
バグの捕らえ方は、自身を置いてある環境だけで違ってきますね。(少なくとも自身のような、実際的必要性から目を離せなくなっている身としては)
記憶の断片をどう繋ぐか(もしくは”繋ぐ”という意識自体を変化させるか)、バグをどこまで捕らえきれるか。
アーカイヴィング的創造が自身の表現(のようなもの)に直結してしまうのならば、上記の2つは重要課題になってしまうわけです。
個々の言葉や思考(信念すら)が、類似化(これは急激に進行しています)していますが、一本化されるくらいなら言葉が通じないくらいのほうが、健全ではないでしょうか?
なにか(人や社会性や)に生かされている。
そのことを知った以上、生かされ方や生かし方をどう配列するかが、自身のやり方のように思った次第です。
おやすみなさーい
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