4日程前にphsを新たに購入。
zero3が物理的に壊れ始めてきたことによる新規購入となったわけだが、
データの移し替えができないなどという今時ないであろうwillcom的事情により、
四苦八苦。
一からアドレスを打ち込む作業。
今日は「さ」行まで終える。(新規phsを使用できるのは一週間後ぐらいだろうか)
アドレス帳をゆっくり見る機会などそうはないから、懐かしい名前が記憶と共に蘇る。
子供を産んだ友人には本人の名前の後に、子の名前を登録しておくことにした。
懐かしい名前と記憶が蘇ると書いたけれども、どうも記憶の中での時系列が曖昧。
記憶は単に古くなっていくものではないかも知れない。
私の場合、記憶とはどうも時期ではなく、出来事で分離されているようだ。
そういえばpcでのファイル保存の仕方もそうだ。
”出来事”があってその次に”時期”がある。
そうなると世にいう”積み重ね”という理屈も違ってくるように感じる。
何事も長く積み重ね、年月を費やしていけばいいというわけでもない。
一度、大きな出来事があれば、脳から身体への影響も”積み重ね”以上に大きいに違いない。
こんなことを言うのは単に私が”積み重ね”的な行為が不得意だからだと思う。
今までに積み重ねてきたものは、針を置くと音楽が鳴る不思議な塩化ビニールくらいである。
(よくも飽きずに積み重なるものだ)
その塩化ビニールの”積み重ね”をみていて思うのが、実は”積み重なっていない”ということ。
「akarmaは何を回すの?」なんて聞かれた時に、こちらが?となってしまう。
塩化ビニールは一応棚ごとに、何かしらの自己基準で整理しているが、レコ屋の整列とは幾分違っている。
私が将来レコード屋を開店させた時に、一番ネックになるであろう出来事は資金や場所よりも棚の整頓である。 自分勝手にやったら客が困るのを知っているから。
反対にレコード屋に行って困る事が多々ある。
「これがここにあって、なぜあれが別館にあるんだ!」という実は楽しい悩みだ。
レコードファンはレコードを”買いに行く”のではなく、レコードを”探しに行く”行為が常だ。
ただそれはきっと少数派でしかない。
そういえば7年くらい前に某遊園地に行った際、〈宝探しなんとかかんとか〉という施設があり、「こんなにおもしろい事はなかなかない!」と思ったのだが、翌年には閉鎖されていた。
探す行為は、時代に反しているのは確かだ。(世の中サーチの時代だというだろうけど、あれはチョイスでしかない)
そういえば、一番好きなと映画と聞かれれば、リンチでもフェラーリでもゴダールでもスピルバーグでも宮崎でも黒澤でもない、ロブ・ライナーのスタンド・バイ・ミーである。
100とは言わないけれど50回は観た。行ってしまえばあれも探す過程の映画である。
探しているのは死体だけではないのは言うまでもない。
話がずれているが、これも記憶の断片化(各ファイル化)によるものだろう。
お休みなさい。
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