今月のBRUTUS、”言葉の力”特集はおそらく相当数の売上になっているだろうに。

編集者が気を利かせたこうゆう類の特集に対する反響はとても大きいらしい。
それなりに考慮したページネイションなのだろうけれど、ここまで無責任なことができる媒体は雑誌ならではだ。
読んだそれぞれの人間が、誰かしらの言葉や詩やに影響されコピーされていく。
(断片的なものでしかないからコピーとはいわないのかもしれない)
1ページごとに、その発言者との温度差が生まれていた。
ある特定のスペースにまるで新聞記事のように、不似合いな言葉が同居している。
なにもかも1か所に集約されている。
どんどんそうゆう方向に進んでいるのは知っている。
意識の話にしても同じことだ。
僕らの意識はどこか一つに集約されているように感じるし、それを求めていた時代の人間が影響力をもったからこうゆうことになっているに違いない。
”なにかに集約されているということは、すばらしいことのように思う”という意識は、
私たちが作った意識のようには思えない。
生物がなぜ死ぬようにできているかといえば、そのほうが都合が良いからに違いない。
ある程度の意識だけを生かし、それを元にまた構成される。
なんらかの方向性に向かう。
誰にでもある意識として”こうなればいいのに”というのがある。
”こうなればいいのに”という意識は果たして自己から生まれたものだろうか?
”こうなればいいのに”と思った時に、現在でいえばネットワークに流すのが手っ取り早い。
それは時代が違えば、パブリックアドレスすることかもしれないし、デモかもしれない。
プロパガンダもそれの一種だろう。
オープンソースの発達によって、様々な方向から一つのものを作り上げる文化が異常に延びている。
そこには様々な意識が集約されている。
個人の意識は”そこ”にあればいい。ということになる。
私はそれがどうのこうの言う程、頭が良くない。
ただ気持ちが悪いと感じているだけの話だ。
本来、分解していくべき感覚なはずだ。
なにかに集約されているということが理解できないのに、
無意識にそこに”向かっていく”感覚をなんとかしなければならない。
ここで人に助けを求めても、同じことになるだけの話。
私が考えていることを言葉に置き換えると、分解だとか、破壊だとか、あまり良い印象の言葉に辿り着かない。
そもそも人のなかにあるそんな印象はなにによるものなのか。
言葉を使っているうちは集約される一方なのかもしれない。
PR