いつまでたっても仕事で食っていこうという気が起きないのはなんだろうか。
適当にこなして、適当な時期が来ると出世して、適当に忙しくなって。
別に嫌でもなくて。
最近、打ち合わせやらなにやらで所謂エリートさん達とお会いすることが重なった。
やはり、自社内の事や周囲の情勢など、隈なく把握している様子である。
ご立派なもんだし、地位や金も持っていそうでもある。
やればできるのはわかっているけれど、なにかそこに向かう気が起きない。
業種柄、知識というよりは応用力や突発性、柔軟性に長けている必要があるのはわかっていて、
どうゆう方向性でモノを考えれば、そこに辿り着くかも先人を見ていれば大方把握できる。
まるでそこがゴールであるかのように、周囲は動いている。
ただ、どうも動き気になれない。
なぜかって、単に”なんかダサイ”の一言なのだ。
上の考えは、中学生が勉強ばっかヤツ、ダサい・・・といっているのとまったく同意である。
これは単に幼稚な考えでもある。
ただ、自身が学生の頃、懸命になっている人間をダサいと思ったこともないし、
反対になぜそんなに懸命になれるのかが不思議でしょうがなかった。
きっとエリートさんになる為(もしくは何らかの圧力←精神的な事を含めての)である。
型を正確に把握し、対応策を把握(+人間性)・・・この繰り返しを厳密に行うことで。
社会人によく売れる新書のシリーズに”なんとかかんとか術””何とかになる方法”というのがよくある。
あまりに馬鹿げているので目を通したことがなかったが、それではいかんと、最近出た”それ系”の新書を手にとってみると・・・。
そこには信じられない言葉が羅列されてされている。
一種のマニュアルがあり、それに沿う形で行動すると、→こうなる。
みたいなことばかり。(朝起きる時間まで書いてある)
「柔軟に考えを変えて・・・」という一文もよく見られたが、柔軟というよりは強制である。
変な話、誰でも書けそうなもんでもある。
私は”自己”など、存在しない、流動するものだとおもっているという”自己”を持っている。
ただ、その”自己”は、こちらから働きかけて流動させていくということに拒否反応を感じるようである。
”自己”の流動はあくまで無意識でなければ意味がない。
別にぶっ飛んだ人間ではないことはわかっているけれど、型が変な形をしているらしい。
どうもおさまりが悪い事が多すぎる。
形を整えるか、歪ななにかで型を埋めていくか。
歪ななにかだろ。