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dabunn
2007/01/05(Fri) 21:53:35
3連休、友人の影くんが我が家に映画の撮影をしにきます。 なんどか途中の台本をみせてもらったのですが、影くんらしい面倒くさい作品が仕上がりそうです。 3連休はそんなこともあるので家で影君の映画用音楽でも作っていようと思っていたのですが、久しぶりにレコード欲が爆発です。最近は家で慎重に視聴してネットで買っていたのですが、どうもそうゆうことじゃないのはわかっていたことです。 視聴して買う分ハズレはないのですが、欲求がおさまるわけではありません。 そんなわけで3連休はレコードマップ2000(古い、最近発刊してないんじゃないのかな?)を片手に中央線小田急線山手線を動き回ろうと決心したところです。 修行を怠っていた分、敷居を思いっきり下げて買い捲ろうと思います。財布を空っぽにしてやります。 苦痛の視聴会に参加してくれる方募集です。
ここで例年のごとく去年よく聴いた音源をメモさせてください。
「誤解を恐れずに言えば、この作品は南博の鬱性が生んだ傑作である。」--菊池成孔
面倒になってきたのでこの辺でやめておきます。 明日は何を買って来ようか♪
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あけましておめでとうございます。
2007/01/04(Thu) 20:36:22
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。 年末年始は例年のごとく岩手のほうへ帰郷しておりました。
さて 帰郷するたびに方言について考えます。 土地独自の言語以外にもアクセントやニュアンスで構成されているため、多少難解であることは確かなのですが、向こうの友人と1分と話さないうちに同言語でコミュニケーションをとっている自分に気がついたりします。 共通語にあの感情を見出せることがあるのか疑問が残ります。 年始、実家に兄と姉がつれてきたゲストが2人きていたのですが、酔っぱらったウチの父幸雄が方言プラス巻き舌全開で責め立てていた時2人はどこまで理解しているのか観察していました。(幸雄の会話はそれに加えカットアップ気味です) ある文章があったとき、速度によっては認識できる意味が同じ(または類似)するといいます。 試しに。(以下invesible jukebox / トニーへリントン著より) ヴァイオリンで純生調の演奏をすると、音の振動が腕を伝って顎のところで共鳴し、低い音で演奏すればするほど、その共鳴の度合いが強くなる。
視覚的に飛び込んでくるのはヴァイオリン、共鳴、演奏、低い、腕、顎、純生調などの言語ではないでしょうか。 街中においての人の会話のほうが実験的だったりすることは多々あります。それを「文章という形にされた」という認識はしないにしても、なじんでいることなんですね。 帰省してイベントに出て思ったのが、すべてにおいて遅れをとるエレクトロニックミュージックのエフェクト処理が大幅に進んだことです。 なにか見つけなければいけないのはどの分野においてもおなじようです。 今年なにか発見できることを目標に・・。
帰省(既成)
2006/12/27(Wed) 22:10:51
年末年始岩手に帰りますので、お休みです。 友人Oの計らいでイベントに2回でるので写真でも載せれればよいなと思ってます。 良いお年をー。
細分
2006/12/26(Tue) 23:47:33
←サーラ・エクストロン 「Grotesque & Arabesque」より
ガーデンプレイスの東京都写真美術館に行き、「光と影」展を観て来ました。 展示会のサブタイトルに「はじめに、ひかりが、あった」とあるのですが、そのサブタイトルに考えを向けながらの鑑賞をなりました。 展示会自体からはとくに感じ取れることはなく(白黒のコントラストになにかを見出すことができず)、30分もしないうちに会場を後にしました。 一点あげるなら、サーラ・エクストロンの知らない作品が観れたこと
フィンランドのオバちゃんはかなりの親日家で日本でも公演などを数多く開いています。(子供向けに) 作品に植物をよく使用する人で、写真だけではなく、映像やインスタレーションも行っています。 有機的な素材を使用し、成長から退化までのプロセスを実験的に用いた映像作品は、生と死のイメージをモチーフにしているといいます。 以前観た映像の素材はバクテリアを用いたものでした。 光と影、生と死、卵と生体、躁と鬱・・・。 二極化されるものの割合や発生が議論されている様子は、それこそ電車内でも喫茶店でも行われますが、この類の事にあまり馴染めずにいます。 言葉は物事を分裂させる特性を持っているのはいうまでもなくて、その良い例が身体です。私達の身体にはあらゆるところに名前がついています。どこからが喉でどこからが顎か・・・。そんな疑問をいだく以前に、喉とは何か?顎とは何か?ということにはなりません。 以前、友人はプラモデル作る時、「説明書を見なくとも作れる」と言っていました。 私達が言葉によって分解された身体をパーツとして認識しているが故の発言でしょう。 つい先日も新宿でバラバラの遺体が発見されたようですが、「手」「足」などバラバラの部位が紹介されていたのを聞いて不思議に思いました。 バラバラにするという発想自体、言葉が生んだものかも知れません。 言葉はどこまで細分化できるのか。 音楽家はジャンルで分かれ括られる事を拒みたがる人が多いですが、拒むくらいなら括られるようなもん作るなと日々思います。 言葉で表すことも細分化もできないものに意味を感じるのはいかかでしょうか。
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