腕時計の日にちが1日ずれていたことに気がついた時はもうすでに遅い。
nhk 「知るを楽しむ」を見逃す。
以前からテレビを家に置いていないのですが、とうとう1週間前ほどにビデオキャプチャーボード(チューナー付き)をパソコンに突っ込んでいたんです。
地上波とは別にケーブルテレビまで受信するので、お得な感じがしていたものの結局まったく見ない。
キャプチャーボードは、ほぼ菊池成孔専用チューナーと化してしまうのではないか・・・。
そんな成専用チューナーも視聴者が日にちをまちがったら意味がない。
サイトを見てもられば早いのですが、「知るを楽しむ」菊池成孔編(マイルス・デイビス編)は4回に渡って毎週火曜日に放映されるというなんとも素敵なプログラム。毎週、成ちゃんの語りが聞けるわけだ。
成ちゃんと茂木(脳)先生に共通する”さも思考することをしない瞬間的な脳”から出力される言葉は聞いていてるこちらが困惑してしまう。(2人はとても文書的だから、本を読むのが遅い私なんかは理解2人のスピードについていけないのだ)
ある種、音として入り込んでくる言葉としての(広義としての)トランス的部分を持ち合わせているから、意味としてではなくて、まるでオシロスコープ波形のような存在=2人に共通する言葉の性質。
という解釈。
自身にとって心地のいい音と心地いい人の声帯というのがある。
そこいらの知りもしない人の声帯に怒り覚え煮えたぎらんばかりに、内心狂気した経験は皆あると思う。(なかったら困る)
知りもしない声帯の持ち主の発する音は、なぜそんなに不快に響くのか。
例えば、不快な音楽がそれぞれある。
その辺にあふれる音楽の場合、大概は既存の楽器や何かで構成されているので、短音レベルに再分解してしまえば、リードだったり、ハット音だったり。
もちろん気にいらない短音も多く存在するでしょうけれど、そんな短音が誰かの手で誰かの思考のもと構成されて、それが不快な音楽になってしまっているとは考えにくいですね。(言い切れないけど)
不快な音楽の主要素の大半の原因は”誰かの思考のもと構成された”という部分にあります。
ただ不快な声帯というのは、どうもまた違う。
言葉の構成は自分自身だし、”話し方”次第で印象もおおきく変化するだろうけれど、心地いい声帯と不快な声帯に同じ文書を読ませても印象は違うはず。
こうなるとどうやらフィルターの問題らしい。
こんな事結論づける事ではないけれど、自身にとって不快な声帯の持ち主は不快な人間だ。(もちろんお互い様)
不快な声帯はいつの頃から身の回りにあったかといえば、幼少のころからだから、おそらく胎児の頃ということになるんでしょう。
生活によって声帯のフィルターが変化するのか、こちらの聴覚が腐っているのかはわからないけれど、どうも不快な声帯を耳にする機会は年齢とともに増えているような気がしてならない。
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