誰にでも日常において質問を受けることが少なからずあるとおもいます。
質問に対して答えを備えている人もいますね、年齢とともに周囲の人間もそうなっていく様子がみて取れます。
答えをどの段階で用意してきたかは、その人の生き方に反映されたものですね。
自己不安へのバックボーンが必要だから何かで固めようとしてきたり、執拗な反発に対する武器という意味で用意されたり、誰かのコピーだったり(←良意でも悪意でもない意味としての)様々です。
自身に置き換えて言えば、”コピーの選別”のようなもので答えを用意してきたように思います。
自分自身で答えを見つけるのは容易ではありません。(不可能とさえ思うのですが)
さまざまな人や資料や環境が物語ってきたものを、収集して選別すること。
何かに順応していないといけない状況が常に付きまとうので、収集されるものも選別の仕方も類似してきます。
web進化論(←未読)という本が流行りましたが、それに対する読後の感想みたいなものをまとめたサイトを目にしたんです。
その本で読者が得た情報は、かなり大まかな曖昧なもののようで、「初心者の私にもwebビジネスの動向がわかりやすく解説してあり、読みやすかったです」のようなものばかり。(未読なのでなんとも言えないですが)
「web進化論を読んで何を知り感じたか?」みたいな質問に対するは答えが「読みやすかった」というのはどうもおかしい。もちろんこの読者の人間的な問題もあるのだろうけど、その他の返答も簡易的な的を得ていないもののように思われたんです。
web進化論が相当な良書ということなのか、批判の文などまったく出てこないんです。
「読みやすかった」の次点でその本について何も考えていないし、もう終了してしまっていますね。
選択さえもされなかったことになります。(←選ばないという選択と同意のように感じますが、決して同意ではないはず)
(選択の)流れの存在が日常にあふれたのは、テレビ普及世代の存在が大きいように思います。
1週間単位で事が進み、月曜のドラマが始まる。
なぜ月曜にドラマが始まることが、期待につながっているのかさっぱりです。
月曜のドラマは終わった瞬間に第2話が始まるのがいいに決まっている。(私は)
映画にしても続編を煽るなら、連続して流すほうがいいに決まっている。(私は)
雑誌すら月刊である必要はない、新聞しかり(私は)
なにかしら、1日、一週間、一か月の流れを媒体によって組まれていると思うと寒気がします。
webが進化したら、サイクルや習慣が媒体によって管理されている日常を、自然な形に取り戻せるかもしれないなんてことがweb進化論には書いているんだろうか?
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