世界中に何種類の音があるのか(聞き取れるのか)なんて事はおそらく把握できないとおもうのですが、その中で音楽とよばれるモノが1%にも満たないという現状があります。(音楽というか音源として)
40年代にはフランスでミュージック・コンクレートが誕生し、自然音の”音楽化”が可能になりました。
これはテープレコーダーが開発されたことで可能になった手法です。(テープレコーダーはナチスドイツによって飛躍的に質があがったようです。PA設備にしてもナチスのプロパガンダ活動に使用するために開発されたようです。大戦時に各国で行われた技術開発はモノに対する用途や思想が間違っていたとしても目を見張るものがあります)
譜面から離れたミュージック・コンクレートは、創作時のハプニングにより楽曲を導き出すという視点を生み出しました。
この手法はシュトックハウゼンやリュック・フェラーリなどが多様したことで、現代にも影響を与えていることは確かで、どんな音楽にも要素として取り入れられているようです。(というか創作するのあたっての基本手法となっている為意識しずらいくらいまで浸透している)
が
アーティストのインタビューなどで現代音楽からの影響が語られる時、どうも信用できない。
とくに現代音楽というとケージ以降の”偶然性”を用いたものが音源として残されているようですが、そのようなモノからの反映というのがまったく聴き取れない。
反映というよりは手法のコピー。
現代の前衛音楽というのが、何を指すのかはわかりませんが、”前衛とよばれるものはは前衛のコピーでしかない”とジョン・テジャダがコメントしていたのが印象的です。
シュルレアリスムにしても”偶然性”を利用した作品が多いのですが、音楽に偶然性が取り入れられたのも同時期のことです。(いわいる第2次大戦後)
”偶然性”が必要とされていたとういうことは、やはり何かに縛られていたといいうことに繋がるとおもうのです。
現代では”偶然性”や”連続性”、”断続的な規則性”などが一般的となっていて、その恩恵を受けながら音楽を聴いているわけですが、そこに満足しているという状況はいつまで続くのかと思うと将来への不安が笑(おそらく我慢できずに実験や開発にとりくんでいる人もいるのでしょうが。渋谷慶一郎さんとかかな?)
自分個人でいうと音楽に関して、現状に満足できずに実験を始めたり、テクノロジーを使用してどうのこうのといった事は始めないとおもうんです。
とある音楽史を眺めると、音楽というものの1%も聴けないまま死んで行くのは確かなことです。それを踏まえたうえで音源にお金を払っているわけだから、ある意味慎重にならないといけない。
djセットのパーツとして消費されるような音楽がレコード屋にはたくさんありますが、その現状を知った上で「音楽は金の為ではない」と言ってしまうアーティストやライターは何を言っているのか。
ことdjに関して言えば、料理をつくる為の材料がレコードなわけで、豆腐を買うのとなんら変わりないんです。(豆腐だけでもうまいが・・・)
今回なにが言いたかったかというと、新しいものを求めるという気持ちが消費社会以降クリエイティブと直結しているという事自体、貧乏くさい寂しい事だということです。
ビジネスがそれで成り立っているのも不思議なものだし、そうゆう話をする人が増えているのも不思議なことです。
ありものを見つめたこともないくせに。
悲観的に終了します笑
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