人が何を考えているかなんてことはわかるもんじゃないということは、自身の言動からもよくわかることだと思います。(瞬間的だったり、変動的だったりもするから)
それにそんなことは別にわからなくてもいいんですが。
自身で普段 発している言葉が影響して自己人格形成の一端を担っているなんてこともよく聞きますが、実際バカらしい。発する言葉を選んでいるのも、その人格だろうから。
”芯の通った強い人間”なんて言葉がある。認識を間違っていなければ、自身の中になにか変わらない意志を持ち続け、なにかを永続的に行ったりすることだろうと思っている。
”変わらない意志”というのが大切にされて、教育されてきたもんだから、なんの疑問も持たずにそれを受け入れているんだろうし、それを逆手にとったかのように”私は変わらない”と意思を固め、周囲に迷惑がかかったりしている人間なんかがいる。
”変わらない意思”というものには疑問を感じてしまう。(=変えられない意志)
意識的にそうしていることは、誰かとの係り合いで生じてくることがほとんどではないか。
例えば(例えが悪いような気がするが)「私はあの人を愛し続ける」なんて聞いても、あーそうですか。というのが本音のところだ。
”あーそうですか”という本音はどこからくるかというと、自身の人格から来る。
自身の人格はどこからくるか。そんなもんはその辺に散らばっている。そこら辺に人格はあるのだ。
自身の”変わらない意志”というものが、まるでいいように扱われているのは、その辺に散らばっている人格に不安を抱く人格があるということを皆が発見し、不安から逃れたからであろう。
”自分とはなにものか”と問い詰めた結果、自身で死を選んだ人も多い。”変わらない意志”を究極に追及し、形にしていくのは、想像もつかない苦しみ(かなんか)を生むようだ。
「私は変わらない」なんて言葉を簡単に言ってしまい、それを踏みにじられると、まっさきに怒りやなんかで誤魔化そうと血の気の多い人間とはまったく別物だ。
人はどうやら変わり続けるようにできているようだが、社会や宗教や人同士がそれを拒んでしまったようだ。
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