自動記述について書くと、いつか書いていたので書こうと思います。
自動記述=オートマティズム。
こんな感じで書き始めると、どっかのコピーや解説のように延々つまらない文章が続いてしまうので、もう後悔しているわけです。
←アンドレ・ブルトン著 「ナジャ」 (小説のシュルレアリスムってことらしい妙本)
自動記述がどうゆうことかってことだけ前提に置きたいので、以下コピペです。
自動記述、自動現象。そもそもは生理学・心理学用語であり、意識の介在なしに動作を行なってしまう現象を示す。1920年代ヨーロッパのシュルレアリストたちはこの現象を表現に応用し、理性によるコントロールを取り除いて意識下のイメージを記述することを目指した。自由に思いつくままの言葉を記したA・ブルトンとF・スーポーによる詩『磁場』が嚆矢とされる。F・ピカビアのインクのしみやJ・アルプのちぎり絵、M・エルンストのフロッタージュ、O・ドミンゲスのデカルコマニー等がそれに続く。第二次大戦前後にブルトン、エルンストらはアメリカに亡命するが、アメリカでもオートマティズムの方法論は注目され、A・ゴーキーやJ・ポロックらがアクション・ペインティングを産み出すきっかけとなった。
で
ブルトンの文章による自動記述以降とも言われるフロッタージュや、アクションペインティングは高校生だった頃の私が知っていて実践したくらいですから(美術同好会にいたんです。初年度計2名の同好会。オサダはどうしているのか?笑)、なんというか一種の手法(方法)として認知されていますね。(コラージュなんかもそうだ)
シュルレアリスムは現在は一般美術教育の一環となってるでしょうね。義務教育の段階では、シュルレアリスムやダダが生んだ方法は教育されなかったように思いますが、美大やなんかではそうゆうことばっかするんでしょう。
なぜ義務教育の段階で避けられているのかも問題になりそうですが、記憶していないことが多いので・・・。
←マックス・エルンストのコラージュによるもの
(彼の奇書といわれる全編コラージュの”百頭女”はまだ未読です)
「理性によるコントロールを取り除いて意識下のイメージを記述する」
自動記述はそれこそ誰にでもできる行為です。
私も以前やってみたことがあります。(ノート5枚分くらいですが。←なぜそれくらいで終了したかって多分聴いていたアルバムが終了したんでしょう。私の行動は案外cdやレコードの終了に支配されるところがあります笑)
私がやってみた感じ、なにか現在を断片的にそのまま書きとっているようなものになりました。
目に見えること、書いているうちに手がしびれてきたこと、それに気がついたこと、そのことで意識が脳にいったこと、何度も同じことを書いているんじゃないかとバイタリティのなさに不安を感じたこと。その時々一瞬一瞬を書きとるという作業になったわけです。
ただそれも、思考自体に書くという行為が追いつかないもんで尚更断片的になってしまうんですね。
私が試した感じそんなもんでした。
ただこれを毎日のように延々と続けていると、どうも気がどうにかなるようです。
ブルトンはフィリップ・スーポーという男と2人で毎日のように自動記述に取り組んだようですが、自動記述のスピードが猛スピードになりのめり込むほど狂気に近い状態になるというんです。
「窓から外を見たら飛び降りたくなった」とか「外にでると奇妙な幻覚に襲われた」とかいうコメントを残しているようです。
私は物書きではないですから、何とも言えないんですが、文章を書いている作家さんやライターさんなんかは、こうゆう一種自動記述的な経験をされたことがあるのではないでしょうか?
私などヒドイもので、ブログの記事を「バー」っと書いて、後なり読み返すと、なんか変なことを言っていたり、思ってもいないことを書いていたりすることがあります。(そして次の日なんかには忘れている)
日常的なことなんでしょうね。
そういえば永遠スクラッチしている時なんかもあります。それと同じで永遠ソロパートを引き続けるギタリストなんかも、もはや自分の意思とは別のところで弾いているんでしょうね。
少し話変わって。
茂木健一郎が言っていたんですが、ランボーだかデカルトが言った”我思うゆえに我あり”という言葉がありますね。
その当時の哲学では最先端というか、前衛的だったこの言葉も現在では、小中学生がこの哲学をあたりまえのように認識した上で自殺したりするって。
で
我思うゆえに我があるのは、どうも通常意識状態(←日常という感じでとらえてください)でしか意味をなさないんじゃないかと。
少し日常のスピードがあがったり(超現実状態とでもいうのでしょうか)、意識が飛んでいる時(寝る前とかそうゆうことでもいいです)なんかは、”誰かに私が考えられている”というような状態を感じざる負えなくなるようです。
禅なんかもそうなんじゃないでしょうか。自己を見つめることをしようとすると、どうも内部へ向かっていくイメージをするけれども、そのことに集中することで外部との接続を途絶えたりすると、意外と内部には何もないような状態が禅の目的とするところではないでしょうか。(←大雑把にね)
眠いので眠ります。
ではまたー。
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