身近に音楽の事を話せる人と最近出会う。
ミュージシャンが云々とか、すぐに終わってしまうような話ではなく、理屈になりすぎない、どちらかというと体感したことや、不思議な事とか。
音楽が不思議なことは、言うまでもないけれど。
彼が普段音楽をあまり聴かない友人をヤバメ(ニュアンスの問題ですが・・・)クラブイベントに誘った時、
誘われた友人は踊りくるったあげく、当然フッといなくなった。
彼が心配して様子を見に行くと、「頭が割れそうだった。あそこにいたら破裂してしまいそうだったから逃げてきた」と言ったという。
ちなみに彼も誘われた友人もシラフだ。
音楽でグシャグシャになってしまうことは稀に訪れる。
どの音楽でグシャグシャになるかはそれぞれかもしれないけれど、
それがウータン・クランでも、ブラントン・ロスでもフェネスでもハービーハンコックでもBAYSでもセルジュ・ゲンスプールでもなんでもかんでもグシャグシャになることはある。
きっとメンタル(フィジカルでもなんでもいい)的なタイミングも絡んでくる。
僕がdjをずっとやっているのもそうだ。
稀に一人ヘッドホンでグシャグシャになる瞬間があるのだけれど、それを持続できればとおもう。
安定した持続というのは危険な出来事だけれど、その先に何か見る事ができることも知っている。
誘われた友人が「頭が割れそうだから・・・」といってバックヤードに移動することができない環境であったならば、発狂して失禁でもし、ぶっ飛んでしまったんだと思う。
これが”危険”なのかどうか。
脳(身)の危険はなにが察知したのか。
きっとそれは自己意識ではなく、社会性とかなにかだ。
基本的に音楽を聴く事や演奏することはなにかに制限されることが多い。
その代表が”時間”だ。
なにか危険値のようなものが”時間”や”持続”との関係性から生成されているような気がしてならない。
「これ以上~~しすぎると・・・・。」
先ほども触れたように、これは明らかに自己意識ではない。
なんせ”これ以上”を経験したこともないのだから。
ただの植え込みの基準であり、なぜかそれを危険値のようにとらえてしまっている。
例えば、スピードにしても同様だ。
自身の危険値なんてものが以下に当てにならないかは、一歩引いてみるとわかる。
ある段差から降りようとしている人間を離れたところから見ていると、みている側はなんの心配もないが、降りる側はびびってたりする。
熱い器を持ち、すぐに手を放してし、器を割ってしまう事も、同様である。
自己意識と思っている部分は自体が自己意識ではなく、それがなんなのかはよくわからないが、それほど当てにならないものもない。
なんだか今日は同じことをなんども書いている気がする。
きっと寝ていないからだ。
お休みなさい。
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