明日は明日。
というふうに、一日が連続して続かないのは、単に睡眠を挟むからだろうか。
前日の気持ちが翌朝、豹変していいる感覚が恐ろしくも救われも・・・。
私の無意識状態はおそらくかなり無責任なもんだ。
意識状態での集中力はかなり継続するほうだと思っているけれど、睡眠を挟んだとたん別人である。
”大切な日の前に寝るのが怖い”などという人はそんな感覚を自認しているのだろうか。
私は大切だろうが何だろうが、睡魔が襲えば意識も鈍り寝てしまう。
いつも困っているのが、作曲とmixを作成するときだ。
私は作業効率が悪いのと、あきらめが悪いのが同居して、どちらもなかなか捗らない。
それに気がついたことが割と誰というわけではなく、第3者の事を考えているようだ。
要するに自分がどう思われているか、どう思われたいか、ということの表れなのだろう。
”私は誰にも左右されない”というスタンスは、その発言を機にむしろ誰からも左右されていることのあらわれであるように思った。
人のどんな発言も、皆聞き飽きている。
誰がどんな事を言おうが、どこかで聞いたような言葉だ。
稀に素直に受け止められる言葉がある。
それは境遇がつきものだったりする。
私もよく無責任に適当な事を話すことがある。
なんの境遇も知らないで、知ったような事を話す。
それは間違ってなくても、どこかで聞いたような話だから、言葉としての意味はなくなる。
所謂”場の空気”を重くする言葉というのがあるが、その言葉が発せられる境遇を皆知っているからだ。
”なにもそんなこと言わなくても気がついていたよ”
もしかしたら上記こそ、日本的感覚なのかも知れない。
気がついていることを口に出すか、出さないか。
口に出したモノは愚かにもみえるが、それとは違うなにかを得ている。
その何かを得ているという感覚は、私にとってどこかおかしいことだ。
なんせ皆感じとれているんだから。
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