音に支えられている。
まともに音に触れる時間を失くしている現状は、脳ばかりが働いて、感覚を鈍らせる。
(音を認識しているのは脳だけれども、音に対するこちら側からの指向性は感覚によるものが大きい)
音との触れ方がある種特異なのかも知れない。
今日、神奈川のある街に行き、困憊の中、ほぼ無意識下で歩いていると、久しぶりにその感覚が訪れた。
いわいる騒音による双方からやってきた音のタイミングと音色はとても複雑な構成をしていたが、はっきりと認識できた。
自身の中に取り込もうとした時、ふと取り込み方を忘れてしまっていたことに気がついた。
蹴らなければ蹴れなくなる。サッカーのそれと同意である。
自身のキャパシティなど、考えるだけ無駄だけれど、少し”他”に障害がでてきているように感じた。
私は意識的に脳に記憶させることはほとんどしてこなかったように思う。
それが必要かどうかは勝手に脳が判断して取り込んでいた。暗記などまずできない。
必要ならば勝手におぼえる。誰でもそんなもんだろう。
しかしここ数ヶ月、必要なことさえ、それを留めておく脳内フォルダがどこか階層の深い場所に行ってしまっているようだ。
音に支えられている。
今日secaiのNSDさんよりcdが届いた。
彼が造った音に浸りながら、考えに考えた。
私には日常にそんな時間が必要だし、危なく一つの感覚を失いそうになっていた。
傍からみたらとっくに失っているように見えるのかも知れない。
「いつもと違うよ」と最近何度か様々な人から言われた。
自身がもつ”いつも”などわからないが、周囲の人が認識する”いつもの私”と違っているのならば、いずれ付き合い方自体が変化してきてしまうということにも直結してくる。
仕事を通じて、多くの人が周囲にやってきたけれど、昔から私を知る人にとって、それは”いつもの私”ではないのかも知れない。
いつもの私など、存在しない。
”自分らしさ”などいままでにどこでも手に入れていない。
常に変容はする。それは自己意識によるものではなく、周囲からくる問いへの返答としての意識の指向性である。
ないもない状態で私が私の方向性考えたのは、とても具体的だがレコード屋の店主くらいだ。
私はレコード屋の店主になるものだといつの頃から思いはじめたが、ある程度、話を具体化させると、それはつまらないものになってしまう。
自身のなかにあるレコード屋店主という曖昧なイメージを具体化させたくないわけだ。
私がいうレコード屋の店主像というのは、ヒーローになりたい少年や、うつろいだ夢のような話をする女性となにも変わらないのかもしれない。
少年のヒーローがマジレンジャーならば、私のレコード屋店主像は三鷹のパレードの親父だ。
自分の置きたいレコードに囲まれながら、店を運営するのも理想的だけれど、パレードのおやじはそうではない。
おやじは、ゴミみたいなレコードに囲まれながら、その人なにかを発掘するのを楽しむかのように、ごみみたいなレコードをならべ、すべてを視聴させてくれる。
視聴の際、軽くアドバイスをくれる。
以前パレード内でアントニオ・カルロス・ジョビンのレコードを探していた60代くらいの女性を見かけたが、親父はその人とジョビンの話を少しすると、ジョビンのレコードと同時に遠慮した口調でスタン・ゲッツのレコードを薦めた。
女性はスタン・ゲッツのレコードを買っていかなかったので少し残念そうな口調に変化していた。
彼はそんな人だ。
そんな姿に憧れをもったのかも知れない。
好きなレコードを置くのではなく、客にとっての音楽の可能性を引き出すレコードを置く。
するとレコード屋は乱雑なゴミ山と化してしまうけれど、音楽性はそもそも乱雑なものだから、自然な姿なのかもしれない。
こんな文章を書きながらランダムでiTunesから流れる曲を聴いていたが、私がいままで貯めてきた音は乱雑ながらもそれぞれが響いた。
まるでなにかを呼び戻そうとするように聴こえる。
これは必然だ。
あまりにも音に支えられている。
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