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鈴木幸希
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2026/04/10(Fri) 10:55:03
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2007/06/21(Thu) 22:50:04

多方から何一つの統一性ももたない情報が飛んで来た時の混乱とは何が原因だろうか。

一つずつの情報を形どってしまうことからくる、ただの悪い癖ではないのだろうか。

「ふと我に帰る」・・、何の為に無意識に”我”からの脱却をはかってしまうのだろうか。

脳の研究が盛んで、”脳化”なんて言葉があったりもするけれど、
私達が”思考を行う場所”というのが、脳とは別の場所にある気がしてならない

仮に”思考を行う場所”から脳に信号を送れるとすると、体一つの動きを支持することでgggggp・

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ASIS上映会 6月17日
2007/06/14(Thu) 01:00:43

同級生のchad氏が昨年末から今年初めに撮影していた映画ができた。

我が家を撮影現場に使用された為、撮影風景をいつでも覗けるところにいたのだけれど、そこに”見知らぬ空気”が存在していたのでとても覗くことが出来なかった。

距離感というのは存在するけれど(一般に周囲40cm四方が自己内在テリトリーだった気が・・・)、その瞬間は拡大されていて、我が家が我が家ではないような感じが常にしていたし、テリトリーが無くなることに対してある種の恐怖感を覚えたのか、気が気でなかった。

chad氏は、撮影時、人格が薄れているように感じた。長期集中するとどうしても現れるアレである。(疲労でない)


出来上がった映画「ASIS」は以前からchad氏の人格を知っている僕としては、細部に意外な面が多く見られたのがショックだった。
内在しているものが等身大ででているのだろうか、いままで知りもしないし、今後もみないであろう一面が見てとれて、とてもうれしくなっていた。(とともに、俺は進化してるか?などと問いつつ)

今週日曜日(17日)に上映会(←詳細クリック)があるので確認してみてください。

現在できている映画には、音楽の要素が抜けていた。以前から私が頼まれていた。
とてもうれしいが、適当なトラックをつけるなんてことをしてはいけないと撮影現場の空気をみた時に思った。

出来上がりを数回見た上で、効果的な音を足していかないといけない。
自身のエゴでしかつくれないと思っていた音楽も、素直に”何かの為に”とか思える時がくるもんだと自身に関心。

影響をくれる人は大切にしないといけないし、こちらからも影響を与えれれば本望だ。

インターフェイスの可能性
2007/06/10(Sun) 22:11:13
前回の記事に書いた、icc開館10周年記念セッションシリーズvol.2  「メディア・テクノロジーと生成する〈知〉」”インターフェイスの可能性”に行ってきました。

icc_d.jpg



















250人先着で14:00スタートというのに、13:59に初台駅到着。
早足でオペラシティ内を駆け抜ける。(他の催し物によるものか、オペラシティ全体が珍しくにぎわっている)

250名先着といっても定員に達することはまずないだろうとゆう予想に反し、席の空きから見て230人位は入っている。大学生風やどっかの先生、教授風の人、あとは私のような冷やかしの面々。インターフェイスの今後について考える必要がある人がこの中に何人いるのか。私自身、全く必要ない。

それならなんでいくかといえば、パレリストの一人である岡崎乾次郎著の“芸術の設計”を最近読みはじめていたというのが大きい。芸術を芸術として捉えていないのではないかと疑いたくもなる視点からの考察力がイカれている本。

上記のような岡崎氏のタイミング的なもの以外にも、神戸大学の麻疹による休校があって実現したのではないかという郡司ペギオ幸夫さんの参加による興味が大きかった今回のセッション。最後のパネリスト、ニブロール主宰の矢内原さんという女性は全く知らなかった。

今回の司会は残念ながら、ドミニク・チェンさんではなく、四方幸子さん。
キュレーターやら教授やらなにかとやられているような人らしいけれど、どうも司会は向いていないらしく、パネリスト紹介も趣旨説明もままならないうちにグダグダの進行。また予想外のニブロール主催、矢内原さんの天然少女っぷりに、岡崎氏とペギオ氏のなんとも言えない表情。四方さんは表情もなく、早口(、がない)で話しまくっているが、ものすごいカットアップな文法に全く理解不明。
矢内原さんに関しては、なぜパネリストに選ばれたのかまったくわからない始末。

岡崎さんがセッション中に「今日は早口の人ばかりですね」とつい口にしてしまう。
ペギオさんもマイクは遠いわ、口を開かないわで、しかも複雑系の話をするもんだから、聴き手としては、これほどキツイセッションもない。(内容に以前の問題の部分で)

さて本題。

”インターフェイスの可能性”という議題がついた今回のセッション。

インターフェイスと聞いて私が一番はじめに思いつくのは、どうしてもオーディオインターフェイスである。
pcで音楽を作成したり編集したりする場合必ず必要になってくる機材なのだけれど、音楽作成などしない人はあまりオーディオインターフェイスをつける人はいない。youtubeなどの粗悪な映像を粗悪な内臓スピーカーを使い眺めていても文句を言う人はなかなかいない。そのくせテレビの画質にはうるさいのだからわけがわからない。

どうしても話がそれる。  インターフェイスの話だ。

インターフェイスというと何かの境界と境界をつないでいうような認識がある。
今回話されていたのは、インターフェイスする場合どこまでを主体とするか、何かに生じた”ヒビ”自体がインターフェイスというような、インターフェイスそのものよりは、その周囲にあるものについて話が進んでいった。(要はそこに可能性を見出そうとしていたのだろう)

結果、可能性というよりは問題点ばかりが浮上。

最後にには結局”インターフェイスによってシステムが規定される”という根本問題に立ち戻り終了という始末。

インターフェイスによって規定されるのはもちろんシステムだけではなく、作品やら、作業自体も規定される。
イラストレーターやフォトショップを使用すれば、できないこととできることがある。それが筆や鉛筆というインターフェイスでも一緒。

そこに規定が入る。

人と作品の間のインターフェイスは何かしらを自身で選ぶ必要がある。(想像というインターフェイスさえ筆というインターフェイスとなんの違いもない。)









icc開館10周年記念セッションシリーズvol.2
「メディア・テクノロジーを生成する〈知〉」


4月?に行われたvol.1の「メディア×アートの創造と未来」に続く、セッションシリーズ。
vol.2台回目、6月9日のセッションは造形作家の岡崎さん、ニブロール主宰の人、そして郡司ペギオさんの3人。
ペギオさんは茂木さんのブログにたびたび登場する名前ともどもユーモアな方。

ところで、

いくらiccがメディア・テクノロジーがどうこういっても、しっくりこなくなってっきた。

今回は,「インターフェイス」「アーカイヴ」「ネットワーク」にトピックを絞りセッションが行われるという、司会はまたしてもドミニク・チェンさんだろうか?(同じ年齢と聞いて一番驚いた人。笑)

ところでなににしっくりこないのか。

自書、”メディア論”の中で「メディアはメッセージである」と主張したマクルーハン。
テクノロジーやメディアは人間の身体の”拡張”であると延べ、例として”自動車は足の拡張”などと書いていた。(個人的にマクルーハンの思考は好きになれない笑)

マクルーハンがメディアメディアと乱発したのは1950年代の事。(メディア論は文庫本で再販されその辺にごろごろ転がってます)

マクルーハンの意見は割とあとになって浸透したと聞きます。それまでは馬頭されていたと。
確かに、最近の若い人なんかがもろに影響受けた口調でメディア論を復唱していることはあります。

マクルーハンのメディア論は、”メディアやテクノロジーの根底をついている”なんていってしまったライターがいましたが、それも束の間。
メディア、テクノロジーは”身体の拡張”ではなくなりつつあるようです。

「メディアに食われている感覚、吸収される感覚。」
web進化論の梅田さんの発言。

上記はウィキやgoogleの事。(snsは無関係。勝手にやってろって感じ。)

メディアやテクノロジーがオープン化し、共有されるようになっている現状、それを”身体の拡張”と呼べるだろうか?(どちらかというとsnsが身体の拡張の流れを組んでいる)

無意識共有の話になってしまうけれど、”身体の拡張”というよりは、”無意識の拡張”(決して意識の拡張ではない)としたほうが、しっくりくる。

ユングが無意識共有を発表した頃、”夢”とは別のところで無意識が存在してしまうとこを想像したのだろうか?

イメージのミクロ化が進む無意識。
私が5~6年前?にみた無意識の世界は、こんな小さいところではなかったんだけれども・・・・。





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