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鈴木幸希
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アンダーコンプレカバー
2007/04/01(Sun) 23:14:16

undercover20050401s.jpg




←undercober 高橋盾さん





エイプリルフールだというのに、人を騙すことも騙されることもしないまま今日が過ぎようとしています。

”騙すこともなく”というのは自らで判断できるのですが、なぜ”騙されていない”こともわかっているんだと問われれば、簡単なんです。今日は誰とも口をきいていないから。(何件かのメールのやり取りも内容的に騙す騙されるというものではなかった)

桜咲く天気のいい休日に外へ一歩も出ていない(さらに口も開いていない)というのが、まるで悪のように扱われる世の中ですが、悪というより毒にちかい。

外へ出なかった理由としては、昨日の夜から明け方にかけて、例のコンプレックス症候群のようなものがやってきていたというのがあります。

なぜそれはやってきたか。(まーよくくるんですが・・・・)

EYESCREAMのアンダーカバー特集を読んだだけなんですね。(毎月購読するような本でもない)

いわいるモードドメステックブームの衰退と同時期にやってきたファッションバブル期の中心にあったアンダーカバーですが、そんなバブルの中で散々踊り狂ったのは間違いなく私の同世代(25くらい)のわけです。

高橋盾さん自身「好きにやれば売れた」というバブル期は、もちろんすぐにハジケタわけです。
この時、ファッションですから流れなければ話にならない中で、流れられないでいたのは生産者ではなく、消費者側なんです。ついていけなかった。(もちろん留まった生産者もいますが、そもそもそんなに面白いことしてるトコはなかったんですね)

その中でも特にアンダーカバーの進化と進歩のスピードは、とてつもないもので。
それこそ、パンクバンドがクラシックやり始めた(しかも技法さえ習得して)みたいな状況で、しかも既存のクラシックではなかったっていう。

高橋盾さんがそれこそ、ブランド立ち上げたばかりの頃から言っているのが、「金がなくても、着る人がいなくても一人でも服を作り続ける」ってことです。デザイナーでも経営者でもある彼の根本がそれなんでしょうね。

00010f.jpg00030f.jpg




















                                                                    ↑
                   2007/spring/summer

パリコレ進出10回目にして、伊勢丹の強いオファーにより、今年新宿伊勢丹にメンズレディース店を構えたというから、おもしろい。
「幅広く、どんどん着てほしい」という高橋盾さんの考えがよりよい形で進んでいるようです。



やはりいつになっても影響を与えてくれる人がいるほうがいい、それが10代の頃からなんらかの形で見てきた人ともなると、影響はどんどん大きくなってくるような気になります。(しかも毎回新鮮な)

そういえば、それがなぜ家にいる理由になるかといえば、私は影響から衝動をタンテや機材にぶつける事をやっているので、自宅で済んでしまうんですね・・・。

今度はpc担いでスタジオでも行ってみっか。





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未読書
2007/03/31(Sat) 00:56:21

誰にでも日常において質問を受けることが少なからずあるとおもいます。

質問に対して答えを備えている人もいますね、年齢とともに周囲の人間もそうなっていく様子がみて取れます。

答えをどの段階で用意してきたかは、その人の生き方に反映されたものですね。

自己不安へのバックボーンが必要だから何かで固めようとしてきたり、執拗な反発に対する武器という意味で用意されたり、誰かのコピーだったり(←良意でも悪意でもない意味としての)様々です。

自身に置き換えて言えば、”コピーの選別”のようなもので答えを用意してきたように思います。
自分自身で答えを見つけるのは容易ではありません。(不可能とさえ思うのですが)

さまざまな人や資料や環境が物語ってきたものを、収集して選別すること。
何かに順応していないといけない状況が常に付きまとうので、収集されるものも選別の仕方も類似してきます。

web進化論(←未読)という本が流行りましたが、それに対する読後の感想みたいなものをまとめたサイトを目にしたんです。
その本で読者が得た情報は、かなり大まかな曖昧なもののようで、「初心者の私にもwebビジネスの動向がわかりやすく解説してあり、読みやすかったです」のようなものばかり。(未読なのでなんとも言えないですが)

「web進化論を読んで何を知り感じたか?」みたいな質問に対するは答えが「読みやすかった」というのはどうもおかしい。もちろんこの読者の人間的な問題もあるのだろうけど、その他の返答も簡易的な的を得ていないもののように思われたんです。

web進化論が相当な良書ということなのか、批判の文などまったく出てこないんです。

「読みやすかった」の次点でその本について何も考えていないし、もう終了してしまっていますね。

選択さえもされなかったことになります。(←選ばないという選択と同意のように感じますが、決して同意ではないはず)

(選択の)流れの存在が日常にあふれたのは、テレビ普及世代の存在が大きいように思います。
1週間単位で事が進み、月曜のドラマが始まる。
なぜ月曜にドラマが始まることが、期待につながっているのかさっぱりです。
月曜のドラマは終わった瞬間に第2話が始まるのがいいに決まっている。(私は)
映画にしても続編を煽るなら、連続して流すほうがいいに決まっている。(私は)
雑誌すら月刊である必要はない、新聞しかり(私は)

なにかしら、1日、一週間、一か月の流れを媒体によって組まれていると思うと寒気がします。

webが進化したら、サイクルや習慣が媒体によって管理されている日常を、自然な形に取り戻せるかもしれないなんてことがweb進化論には書いているんだろうか?

一応アジア圏だから・・・。
2007/03/30(Fri) 03:35:54
ついさっき消えてしまった記事はあまりにも鬱性の強いものだったので、クリックの過ち一つで消えてしまったことに、そもそもなんの信憑性もなかったのではないかと安堵感に似たものを感じています。

要するに”クリック一つですっきりする場合もある”という形でユビキタス体験をしたわけです。

そこで明るい話題を。

夕飯時に、多少酔った父幸雄から電話があり、結局なんの用事かわからないいつもの感じだったのですが、その中の話の一つで4月を目安に実家にネットを引くことにしたんだそうです。

母が赴任先で使用していたpcを実家に置いていくいうのが事の発端だったらしいんですが、父がネットを使用する理由がなにもないんですね。

すると父が言ったんです。
「お前のプログを観るんだ、へっへっへっ」といった具合に。

ブではなくプです。プログ。
あえて言い直さずそのまま流して置いたんですが、一体だれが父に伝えたのか・・・。
そもそもブとプを言い間違えている次点で、ブログがウェブログの略称だということも知らないであろう父は、なんのことかわかって言っていたのだろうか。

ビジネス用語や広告媒体なんかで新しい言語は毎日のように作られるんでしょうが、そんなことは一切無関係といいった具合の人に、その言語が出会った時に大抵の場合、まったく意味性を持たなくなり、なんならイントネーションや語呂さえも解体されてしまいます。

とても気持ちがいいんですね。言い間違いってやつは。
そもそも具体的な意味が言語に染み付いていない言葉だから、そんなことになるわけです。

〇〇=~~中略~~を意味する。のような言葉ってやつの利便性は常用してしまえば認めなくもないんですが、言葉は使う人間を選ばないから意味性の認識の仕方が違っただけで大きく異差が生じてくるんですね。

それはそれでおもしろいんですけど。

誰かのその場限りの選択でできていったような1つの意味も伝えることのできない言葉が、増え続けるのはワリとこの国らしいのかもしれません。

季節などに依存した独立した文学感が国ですからでしょうが、物語の序文が”何かを創造させる一文”になっていることが多いように思います。
例えば、[朝から降り続いた雨が去った静かな4月の夜、老人はパン屋の前に腰を据える]という適当な一文が、その物語の序文だったりすると、場所や季節感くらいは容易に想像できるでしょう。

ただ、雨が降ろうがパン屋の前だろうが、老人だろうがなんだろうがいいはずなんです。

これは誰かの創造のもとに、こちらの思考を傾けてその人の創造風景を形にしていく作業ですね。

めちゃくちゃなことを言うと、この誰かの一瞬の気分や選択によって創造されたものに一瞬でも思考を傾けることに嫌気がさすわけです。

なにが言いたいかわかりませんが、考え尽くされた出来事やモノが目につきにくい状況は、物質文明の産物なのではないかと思ったんです。






週末に浦和のほうまで足を延ばし、シュルレアリスム展に行ってきました。

shuru.jpg


















最終日に行った為か悪天とはいえ、そこそこの来客数。

シュルレアリスムについて(とゆうか自動記述について)、以前書いた事がありますが、今回の展示会は行く前からどうも怪しかったんですね。
参加作家が30人もいるんです。それで110点。

シュルレアリスムについて、というより、シュルレアリスムが影響を及ぼしたモノ(手法)について、そこまで深入りしてないもんだから、今回の展示会のような”広義としてのシュルレアリスム”なんてことになると、どんなもんかと。

ある程度は巌谷國士さんの著書なんかを読んでいたこともあって、理解しているつもりなんですが・・・ネェ。

なんでこんなに気乗りしないのに、わざわざ埼玉まで行って観なくてもいいじゃないかということなんだけれど、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言の冒頭を読む限りでどうもこのシュルレアリスムというものに期待せずにはいられないところもあったんですね。

ブルトンという男はトリスタン・ツァラ(←ダダの人)と活動していたこともあったのだけれど、どうも初めて会う以前、手紙でやり取りしている段階から、お互いをよく思っていなかったようなんです。実際会ってみても、どうも息統合というわけにはいかなかったようで。(大方、ツァラの怠惰な行動が原因だったようですが)
方向性という意味で一致していても、そんなことはよくあることですよね。

というわけで、ツァラファンの私としては、ブルトンはどうも好かなかったんですね(笑)
ただそれもシュルレアリスム宣言の冒頭を読む以前の話なんです。
どんな冒頭かっていえば、そこいらの私のような人間の”大概の心理”をまとめきっている感じなんです。
考えて煮詰めた先にある文章だということがみてとれる、抽象でもない明確な宣言文なんですね。

悩んでだあげくスッキリしちゃった人って好感がね。もてるんです。


で、


結果的には散々な展示会となったわけです。

やけにご丁寧な解説は学芸員がどっかから拾い上げてきたような文章ばかり。
シュルレアリスム展というよりは、どっかの常設展でも観ているような散漫とした展示。

どうも私自身、シュルレアリスムに過度の期待をしていたに違いない。

シュルレアリスム=超現実。という解釈が一般的ですね。

これは”現実を超える”とかそうゆう意味よりも、”超かわいい!!”なんていうニュアンスで”超現実!”ってな感じで捉えておいてほしいと前記の巌谷さんが書いています。

コラージュ、フロッタージュ、オートマティスム、ユング以降の夢の概念への近接、といった具合にシュルレアリスムが生んだような手法って、あたりまえでしょ的な低レベルな手法としてすっかり認知されています。私はその時代いきたわけでもないので、これらの手法の恩恵をあまり感じないんですね。(サンプリングにはお世話になっていますが)

埼玉で観た”超現実”はただの”現実”と化していて、”超かわいいキティちゃん”が観る側の時経過とともに”キティちゃんかわいい?”になっているようなもんでした。




別件です。


地元 岩手県一関市のjazz喫茶ベイシーのオヤジがまた本を出した!
(昨年”聴く鏡”というタイトルでステレオサウンドの連載を単行本化したものが出版されてます)
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以下コピペ

全国からファンが足繁く通う、ジャズサウンドの聖地、岩手県一関市。1970年の開店以来、このジャズ喫茶を伝説にまで高めた所以は、その「音」にある。アナログの世界に魂を捧げるマスターがあの手この手で「音」をたぐり寄せ、味わい、紡ぎ、語り尽くした名エッセイを再文庫化。カウント・ベイシーをはじめ、ジャズアーティストたちとの交流記としても楽しめる、ジャズオーディオの入門書にして決定版。解説はサックス奏者の坂田明。



私はjblを贔屓するのはこの店の影響以外のなにものでもないんですね。

2007年3月の初版となっている所謂、新書です。

本屋で見つけた時は、あまりの興奮に探していた本を忘れてレジへ並んだほど、この人の文章はおもしろいんです。



さっき時間があったもんだから、ページをめくってたんですね。
するとどうもスラスラ読めるんです。まるで何度か読んだ時が・・・・・・あったんですね。

なんと15年前出版されたものと、まったく同じなんですね。

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←15年前、出版された本(文庫化後の装本)









よくと本人による前書にしっかり再販だと明記されている・・・。

しかもコルトレーンやマイルスのようなjazzの大御所は5~6回は再発がでて今なお聴き継がれているから・・・・・といった冗談まじりだ。

本の再販でタイトルとジャケを変えてくるあたり、新風社は策士だ。


ジャズ喫茶ベイシー←ここ。
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