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2026/04/12(Sun) 00:47:18
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アンダーコンプレカバー
2007/04/01(Sun) 23:14:16
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未読書
2007/03/31(Sat) 00:56:21
誰にでも日常において質問を受けることが少なからずあるとおもいます。
一応アジア圏だから・・・。
2007/03/30(Fri) 03:35:54
ついさっき消えてしまった記事はあまりにも鬱性の強いものだったので、クリックの過ち一つで消えてしまったことに、そもそもなんの信憑性もなかったのではないかと安堵感に似たものを感じています。
要するに”クリック一つですっきりする場合もある”という形でユビキタス体験をしたわけです。 そこで明るい話題を。 夕飯時に、多少酔った父幸雄から電話があり、結局なんの用事かわからないいつもの感じだったのですが、その中の話の一つで4月を目安に実家にネットを引くことにしたんだそうです。 母が赴任先で使用していたpcを実家に置いていくいうのが事の発端だったらしいんですが、父がネットを使用する理由がなにもないんですね。 すると父が言ったんです。 「お前のプログを観るんだ、へっへっへっ」といった具合に。 ブではなくプです。プログ。 あえて言い直さずそのまま流して置いたんですが、一体だれが父に伝えたのか・・・。 そもそもブとプを言い間違えている次点で、ブログがウェブログの略称だということも知らないであろう父は、なんのことかわかって言っていたのだろうか。 ビジネス用語や広告媒体なんかで新しい言語は毎日のように作られるんでしょうが、そんなことは一切無関係といいった具合の人に、その言語が出会った時に大抵の場合、まったく意味性を持たなくなり、なんならイントネーションや語呂さえも解体されてしまいます。 とても気持ちがいいんですね。言い間違いってやつは。 そもそも具体的な意味が言語に染み付いていない言葉だから、そんなことになるわけです。 〇〇=~~中略~~を意味する。のような言葉ってやつの利便性は常用してしまえば認めなくもないんですが、言葉は使う人間を選ばないから意味性の認識の仕方が違っただけで大きく異差が生じてくるんですね。 それはそれでおもしろいんですけど。 誰かのその場限りの選択でできていったような1つの意味も伝えることのできない言葉が、増え続けるのはワリとこの国らしいのかもしれません。 季節などに依存した独立した文学感が国ですからでしょうが、物語の序文が”何かを創造させる一文”になっていることが多いように思います。 例えば、[朝から降り続いた雨が去った静かな4月の夜、老人はパン屋の前に腰を据える]という適当な一文が、その物語の序文だったりすると、場所や季節感くらいは容易に想像できるでしょう。 ただ、雨が降ろうがパン屋の前だろうが、老人だろうがなんだろうがいいはずなんです。 これは誰かの創造のもとに、こちらの思考を傾けてその人の創造風景を形にしていく作業ですね。 めちゃくちゃなことを言うと、この誰かの一瞬の気分や選択によって創造されたものに一瞬でも思考を傾けることに嫌気がさすわけです。 なにが言いたいかわかりませんが、考え尽くされた出来事やモノが目につきにくい状況は、物質文明の産物なのではないかと思ったんです。
「シュルレアリスム展-謎をめぐる不思議な旅-」
2007/03/26(Mon) 19:04:30
週末に浦和のほうまで足を延ばし、シュルレアリスム展に行ってきました。
最終日に行った為か悪天とはいえ、そこそこの来客数。 シュルレアリスムについて(とゆうか自動記述について)、以前書いた事がありますが、今回の展示会は行く前からどうも怪しかったんですね。 参加作家が30人もいるんです。それで110点。 シュルレアリスムについて、というより、シュルレアリスムが影響を及ぼしたモノ(手法)について、そこまで深入りしてないもんだから、今回の展示会のような”広義としてのシュルレアリスム”なんてことになると、どんなもんかと。 ある程度は巌谷國士さんの著書なんかを読んでいたこともあって、理解しているつもりなんですが・・・ネェ。 なんでこんなに気乗りしないのに、わざわざ埼玉まで行って観なくてもいいじゃないかということなんだけれど、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言の冒頭を読む限りでどうもこのシュルレアリスムというものに期待せずにはいられないところもあったんですね。 ブルトンという男はトリスタン・ツァラ(←ダダの人)と活動していたこともあったのだけれど、どうも初めて会う以前、手紙でやり取りしている段階から、お互いをよく思っていなかったようなんです。実際会ってみても、どうも息統合というわけにはいかなかったようで。(大方、ツァラの怠惰な行動が原因だったようですが) 方向性という意味で一致していても、そんなことはよくあることですよね。 というわけで、ツァラファンの私としては、ブルトンはどうも好かなかったんですね(笑) ただそれもシュルレアリスム宣言の冒頭を読む以前の話なんです。 どんな冒頭かっていえば、そこいらの私のような人間の”大概の心理”をまとめきっている感じなんです。 考えて煮詰めた先にある文章だということがみてとれる、抽象でもない明確な宣言文なんですね。 悩んでだあげくスッキリしちゃった人って好感がね。もてるんです。 で、 結果的には散々な展示会となったわけです。 やけにご丁寧な解説は学芸員がどっかから拾い上げてきたような文章ばかり。 シュルレアリスム展というよりは、どっかの常設展でも観ているような散漫とした展示。 どうも私自身、シュルレアリスムに過度の期待をしていたに違いない。 シュルレアリスム=超現実。という解釈が一般的ですね。 これは”現実を超える”とかそうゆう意味よりも、”超かわいい!!”なんていうニュアンスで”超現実!”ってな感じで捉えておいてほしいと前記の巌谷さんが書いています。 コラージュ、フロッタージュ、オートマティスム、ユング以降の夢の概念への近接、といった具合にシュルレアリスムが生んだような手法って、あたりまえでしょ的な低レベルな手法としてすっかり認知されています。私はその時代いきたわけでもないので、これらの手法の恩恵をあまり感じないんですね。(サンプリングにはお世話になっていますが) 埼玉で観た”超現実”はただの”現実”と化していて、”超かわいいキティちゃん”が観る側の時経過とともに”キティちゃんかわいい?”になっているようなもんでした。 別件です。 地元 岩手県一関市のjazz喫茶ベイシーのオヤジがまた本を出した! (昨年”聴く鏡”というタイトルでステレオサウンドの連載を単行本化したものが出版されてます) 以下コピペ 全国からファンが足繁く通う、ジャズサウンドの聖地、岩手県一関市。1970年の開店以来、このジャズ喫茶を伝説にまで高めた所以は、その「音」にある。アナログの世界に魂を捧げるマスターがあの手この手で「音」をたぐり寄せ、味わい、紡ぎ、語り尽くした名エッセイを再文庫化。カウント・ベイシーをはじめ、ジャズアーティストたちとの交流記としても楽しめる、ジャズオーディオの入門書にして決定版。解説はサックス奏者の坂田明。 私はjblを贔屓するのはこの店の影響以外のなにものでもないんですね。 2007年3月の初版となっている所謂、新書です。 本屋で見つけた時は、あまりの興奮に探していた本を忘れてレジへ並んだほど、この人の文章はおもしろいんです。 で さっき時間があったもんだから、ページをめくってたんですね。 するとどうもスラスラ読めるんです。まるで何度か読んだ時が・・・・・・あったんですね。 なんと15年前出版されたものと、まったく同じなんですね。 ←15年前、出版された本(文庫化後の装本) よくと本人による前書にしっかり再販だと明記されている・・・。 しかもコルトレーンやマイルスのようなjazzの大御所は5~6回は再発がでて今なお聴き継がれているから・・・・・といった冗談まじりだ。 本の再販でタイトルとジャケを変えてくるあたり、新風社は策士だ。 ジャズ喫茶ベイシー←ここ。 |