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鈴木幸希
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2026/04/26(Sun) 12:08:43
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column4 : dada宣言
2006/12/12(Tue) 21:25:35

dada宣言なんてタイトルにしてしまったが、なにもここで自分が宣言するわけではないのです。
dadaとはなにかと、問われればdada創始者とされるトリスタン・ツァラの一言に集約されてしまってしまっています。

dadaは何も意味しない

上記の一言だけみたところでなんのことかなんてわかりません。
dadaはスイス生まれです。
1916年チューリヒの文芸カフェ(古本カフェみたいなものらしいです。そういえば三鷹にあったな・・)、キャバレー・ヴォルテールで、ルーマニア人のツァラ(詩人)、同じくルーマニア人のヤンコ(造形作家)、ドイツ人のバル?(反戦運動家)、同じくドイツ人のヒュルゼンベック(医学生、詩人)、アルザス(フランス)出身のアルプ(造形作家)が出会いから生まれたとされています。

dadaという言語は、発明された言葉ではなく、ルーマニア語で2重肯定を表すものだったようです。

それにしてもずいぶん国際的な始まり方ではないかと思ったのですが、同時期の「未来派」や「シュルレアリスム」も同様に言語、国境、民族を越えた運動を展開しています。ようするに20世紀アバンギャルドの最大の特色の一つというわけです。世にゆうグローバル化すら芸術から始まっているのかもしれません。

ところでヒュルゼンベックが(医学生、詩人)だというのをみて気がついた人もいるでしょうが、彼らはこのとき10代~20代前半の若者です。
851tzara5.jpg

 

←1919年のツァラ少年

 

 

その年代の若者がカフェに集い、悩み、なにかを始める。
それは今でもよくある光景でなにも特別な事ではありません。
dadaの始まりも「既成価値への不信」という観念がここで生まれただけの話です。(ただ2006年の自分が客観視した1916年の出来事なので1916年以前に既成価値に不信をもつということが、どれだけのことだったかはわかりません)

この観念が具現化(具体化?)されるのは2年後の1918年。ツァラの「ダダ宣言1918」に上記に書いた「dadaはなにも意味しない」という言葉が掲載されてからのことです。

dadaという言語自体を通常、言語が持つ意味作用から切り離してしまったわけですね。

851tzara.jpg

 

 

←日本語版dada宣言(版元の竹内書店という出版社が潰れたので書店では手にはいらないそうです。僕は本八幡の古本屋でみつけました。多分ラッキーな出来事なのです。)

 

 

 

dadaについて調べていると矛盾点が多く生じているのがわかります。
例えば「ダダ宣言」の中でツァラは以下のような発言もしています。

「dadaは共同体への不信から生まれた」
「私は破壊と否定の大仕事を成し遂げるのだ」

現在自分達がもっているdadaのイメージはツァラによる上記にのような過激な発言によるものが大きいことがわかります。dadaismという言葉を使用することで、「私は既成概念から外れています。」と宣言しているようなことになってしまっています。要はpunkなんかの発祥となんら変わりない意味で捉えられてしまっているわけです。

dadaはなにも意味しない」というツァラがはじめに掲げた宣言がその後のツァラ自身の発言をも被い尽くしているのならば、以後の登場したdada的表現すらなにも意味しないことになりますし、それ自体がdadaの消滅を意味しているということもわかります。
それゆえにdadaism(dada主義)という後にできた言葉すら正確ではないと、誰かが書いていたことを思い出しました。

dadaはなにも意味しない

「なにも意味しない」という言葉を聞いてマルセル・デュシャン(結局この人・・・)をおもい浮かべる人もいると思います。
ツァラとデュシャンの出会いのつながりも「dada宣言1918」から間もなくのことだったようです。

1918年の「dada宣言1918」はフランスのピカビアという画家を感動させます。middle_1151330278.jpg


 





←ピカビアの絵

 

 

 

ピカビアは当時パリ、バルセロナ、ニューヨークに「391」という雑誌を発行していたこともあり、ニューヨークのデュシャンやマン・レイと繋がりがあったようで、ピカビアを通じツァラはニューヨークのアーティストと繋がることになります。
ちなみにデュシャンの「レディ・メイド」(←知っといたほうが身の為です)は1913年には始まっていたので、ダダという言語が生まれる前にdada的無意味さに通じることをしていたんですね。(デュシャン一人で何もかもやられてしまっていることを個人的に再認識しました。)
ニューヨーク・ダダはデュシャンとツァラの出会いがなければ生まれなかったんです。

Duchamp_et_Ray.png

 

←デュシャンとマン・レイ

 

 

 

その後dadaは各地にものすごい勢いで散らばりました。

ツァラはピカビアの誘いでパリへ移り「リチェラチュ-ル(文学)」という雑誌を通じて新しい言語の可能性を模索します。
ドイツでも例のヒュルゼンベックが「クラブ・dada」を結成し、政治文化運動をくりひろげています。
エルンストやアルプがコラージュで偶然を表現したのもこの頃。ガラクタで構成される建築物「メルツバウ」が創られるもの同じ時期です。

1920年のあたりは世界中にdadaが広まった全盛期といえます。(しかし1920年代中頃には衰退したとされいます)

ツァラの「dada宣言」による現在への影響は多大なものです。

現在は「意味がないから」と片付けてしまうことが合理主義とされているようなところがありますが、意味をなさないことが生んできたものが自分達に与える影響はとてつもなく大きいということに気がつかないといけないかもしれません。

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処女航海
2006/12/08(Fri) 21:00:48

「jazzとオーディオが好きだ」

そんなことを自我さえ芽生えていないガキが言ったところで、面倒になるだけのことです。この2つとも歴史的背景や文化があり簡単な気持ちで「触れたり」なんかしていると痛い目にあうようなことさえあるようにさえ思います。

いまや分析され尽くされて素材として扱われるjazzも、分析されたのは音階や音色だけであって、誤解を承知で言ってしまえばエナジーとしてのjazzは「jazz」のなかでしか存在しえないように思います。自分はjazzミュージシャンでも評論家でもないレコード収集者なだけなのですが、jazzという言葉が安易に発せられるとどうしても機敏に反応してしまい、多少攻撃的とすら思える姿勢で構えようとする傾向があります。

なぜjazzとオーディオか。

それは単に自分が岩手県一関市で生まれたからだというとこにあるような気がしてなりません。この町は工場地帯が周辺にあることからか数年前から外国人労働者で溢れ、そもそも町自体にポリシーがないのか商店はフランチャイズされままくり、どこかのコピーの断片のような町に仕上がっている始末。

そんな町にも国際的に厄介な人がいます。

菅原正二さん(62~63歳)。

音楽愛好者なら誰でも知っているjazz喫茶ベイシーのオーナー。

岩手県一関市に生まれたら子供の頃からそこの存在を知ることになります。その次にはオーナーの菅原さんが厄介ものであるということも。(「こだわる」ということをするとどうしても周囲からはそうゆう目でみられてしまうんでしょうね。)

初めてベイシーに言ったのは高校生の頃。

風邪かなんかで学校を休んで病院へ行った帰りに、あまった病院代で映画館に行き(この町の映画館は平日昼間に行くと1人で貸切で観れる)ブラット・ピット主演の「セブン」を観て、その内容に悶々をした気持ちになり、どうにもならない気分で蔵を改築したベイシーのドア(気圧変化を防ぐため2重扉)を開けたのです。

昼間の暗い店内に爆音のjazzとオールバックのおっさんが一人。(正直恐怖心さえある)

喫茶というからにはなにか注文しないといけないわけで800円のコーヒーをお願いすると「学割で600円ね」と菅原さんがいう。この一言で少し安心したように思います。

店内の端のほうに座り、ふと思う。

「どうしようか・・・・」

なにか本でも持っていればよかったものの手には病院でもらった薬と映画の半券しかないわけです。それに、当時コーヒーを飲みながらjazzに耳を傾けるなんて事ができるわけもなく・・・。

店に入ったときに流れていたビックバンド形式のジャズが終わり、続いてピアノ曲へ。

その曲がなんであったかは上京してから知ることになるのですが、あれは間違いなくハービー・ハンコックの「処女航海(MAIDEN VOYAGE) 」だったはずです。「処女航海」はハービーが奇をてらわずアコースティックに丁寧に仕上げた作品です。

菅原さんは客を見てレコードを選びます。(客を見すぎる事について悩んでしまうほどらしいです)

真昼間、風邪を患ったガキに「処女航海」。今その曲名を知った上で思い返すと、菅原さんはおそらく私が始めてベイシーに入った様(心境)を表していたのではないかと・・・。

jazz喫茶という形態の店は日本で生まれたものだそうです。こんないい加減な形態で全国に反映してしまったのだからレコードの溝奥がは深いです。。

そもそもなんでこんなことを書いているのか。

こないだ仕事帰りに千葉のjazz spot candyに行ってきたんです。

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以前ピアニストの高橋悠治氏(1980年始め頃からコンピュータとピアノの即興をやっていた人。クセナキスも絡んでいる)がcandyで演奏したときに一度行っていたのでその時は2度目になります。

jazz喫茶ならではのたいして美味くもないコーヒーを飲んで(音が染み込んでいるから高いらしい)いると、暇そうなオーナーが声をかけてくる。

「お一人ですか?」

jazz喫茶とは基本的に会話が許されず、携帯でもなろうもんならオーナーにジロリと目を向けられトボトボと店を出るものだと思っている(そうであってほしい)ので、これにはかなり驚いた。

こちらが戸惑っている間に後押しするように「なにか選んでください」とリクエストノートを差し出された。

まさかこのときが早々にやってくるとは・・・(50歳くらいの特権だとおもっていた)。

店にはオーナーと常連風の親父が2人、後は自分の4人です。

jazzを聴きに来ている客(2人)のなかで自分が曲を選ぶのはどれほどのプレッシャーか!

しかも自分はサンプリング文化からjazzを聴きはじめて買い漁るっている傾向にあるので、実は断片的(フレーズ的)名盤しかしらないんです(それでいいのだけれど)。

リクエストノートに目をやるとなぜかコルトレーン のA  Love Supremeが目に焼きついた。がしかし、親父2人とともに「至上の愛」というわけにもいかない。

結局ここで選んだのはハンコックの「処女航海」。

7~8年経った今も処女航海。

どうやらまだまだ処女航海続きそうなのです。

 

 

Angloid Avenue/Qrome interview
2006/12/03(Sun) 10:33:55

title : Angloid Avenue

artist : Qrome

・タイトルの意味を教えてください。
 
Angloid Avenue
 
この作品の原理は2つ。1つは「角度を変えると、物の形が変わって見える」、
2つ目は「ビデオでコマ撮りして、アニメイトすれば動く」です。
角度はangle、そしてビデオは機械の眼、言わばandroidの眼。
でもって、道にあるものを撮影対象にしてるので Avenue (大道り)ってわけです
この2つを合わせてAngloid Avenue(造語に憧れがあったのでw)。
 
でもってさらに付け加えると、アングロサクソンとモンゴロイドだと物の見方が大分違うわけです。
これは生物学的なことよりも文化的なことが大きいのだと思いますが、自分では今でも興味深い
テーマなのでタイトルに盛り込みました(もちろん後付けです)。
 
後4つ程、意味があるのですが割愛しましょうw 
 
・どうしてこれをつくりましたか?
 
絵が下手だからw
それとコンテストで賞を取りたいので(応募作品はネット配信しちゃダメなんだけども)
 
・撮影はどちらで?
 
どっか遠出をする時にはカメラを持って撮影してたんで、いろんな所で撮影しました。
千葉、東京、静岡、神奈川、三重、大阪、兵庫。
とにかくよく盗撮と間違われて大変でしたw
 
・いろいろとマンホールを見たと思いますがベストマンホールを教えてください。
しいてあげるなら、ラスタカラーのマンホールです。消防関係のマンホールは派手で良い。
でも、あんまり良いマンホールは無かったですね。マンホールの写真集がいろいろあるんで
興味のある方はそちらを。
 
・最後に最近の気になることを。
 
 インターネット
column3 : ヘンリー・ダーガー
2006/12/03(Sun) 10:22:27

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ヘンリー・ダーガーについて何か書こうと思っていますが、ダーガーについて語られる情報は曖昧なものしかなく、ダーガー自身が「外」に与えるイメージすら、ダーガーの死後に多くの研究者によって一種想像された人格ではないのかとさえ思ってしまいます。

ダーガーは生涯、友人一人持たず(家族もいません)アパートの一室で絵を描いていたということが言われていますが、そのこととダーガーの絵や死後アパートに残されていた15000ページ以上の一大叙事詩といわれるタイプされた原稿が直接的な関係を持った解釈として自分達に広められている始末です。

ダーガーの伝記映画作ろうとエドワード・ズウィックという映画監督(ラスト・サムライの監督)が計画しているようです。監督もダーガーと同じイリノイ州シカゴ生まれだからという理由からなのでしょうか。誰も真実を知らないといわれているだけに映画になるということはかなり危険なことのように思います。

映画の最後に「一部はフィクションです」みたいな添え書きがされていたところで、そんなものみて記憶する人もあまりいないように思います。

ダーガーが1892年にアメリカ、シカゴに生まれて彼がまだ幼い頃に、妹を出産する際に母は亡り生まれた妹は里子に出されたまま、兄妹の再会することはなく・・・・。

やがて、彼は施設に入れられます。身体の自由がきかない父は養育出来る状態ではない、と周囲の判断によるものです。

ダーガーは自閉的な様子を見せていました。誰とも口をきかない日も多く、施設の中でも孤立していくのです。少年が何を考えているのか、判断出来ないまま、ダーガーは精神の遅れというレッテルを貼られて、次の施設へと送られてしまいます。

シカゴ郊外にあった精神に支障を来たした子どもたちを収容する施設。

実は、ダーガーの精神の状態は明確だったともいわれています。

その後のダーガーの生きた範囲の中に往来した人々の証言で彼の置かれた状況などが明らかにされていくのですが、少年期から青年期に差し掛かる貴重な時期を日々、悶々と過ごしたと予想するダーガー。

ダーガーは、1973年に誰にも知られずに死んでいます。

映画として製作すると上記のような内容として撮られることになるんではないでしょうか。

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ダーガーは孤独であるがゆえにイカレテしまったように捉えられてしまいます。

ダーガーの絵に登場する少女たちはしばしば裸体で描かれるんですが、彼女たちに はペニスがついています。世間知に疎い余りダーガーが性差を知らなかったのではないかという説があります。しかし1892年に生まれて1973年に死んだ人間が性差を知らないで生きることが可能でしょうか?

ダーガーの絵の少女の顔は新聞や雑誌の切り抜きをトレースしたものなのです。新聞や雑誌にいくらでも情報はあるでしょう。

性差異を知らずに死んでいったというのはあまりに楽観的ではないでしょうか。

別に自分はダーガーのファンでもなんでもないのですが、60間年も「非現実の王国で」と名のついた物語を妄想していたということに興味を持たないわけにもいかないのです。孤独に作品を作り続けたことに対する嫉妬からくるものも確かにあるのですが、それよりもその作風がバイオレンスでセクシャルということに興味がいきます。

henrydarger.jpg

 

 

「非現実の王国で」はダーガーが生きている間、人にみせられることがなかった自己完結していたものです。

よってメッセージ性はない(もしくは薄い)ということにも捉えられます。

外に向けられなかった作品は多々存在します。それは表現ではなかったということになりますね。(表現の意味をその漢字から捉えるとしたらですが)

芸術に関して「表現」ほど邪魔なものもないように思います。(それは意識していなくともでてくるものだったりするので、否定するはけではないのですが)

「表現」が安易なような気がしてならないまま「表現」を続けて生きていくはどうゆことなんでしょうか?

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