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鈴木幸希
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ドグラ・中村宏・マグラ
2007/03/09(Fri) 02:04:59

1180nakamura.jpg




















2週間くらい前だったか、現代美術館に中村宏 図画事件1953-2007を観に行った時の出来事がメモ帳に保存されていたのを見つけた為、upしますね。

中村 宏という名前を聞いても特にピンとこなかったのですが(日本の芸術家というのに目を向けてこなかったからだろうけれども)、広告を観た時に、どうも見覚えのある画風のものがあったわけです。

5~6年前でしょうか、三鷹に住んでいた時ですね。
おそらくその日もダラダラとした日をすごしていたんでしょう。中央線に乗り普段はあまり降りない高円寺へ。

高円寺というのは以前から苦手でして、なぜかって似たような古着屋しかないし、レコード屋は”伝説の!!”とか”再結成!!”とか”極悪!!”とか”変態!!”とか”元祖!!”とか”限定!!”とかいう類しか取り扱わないもんだからどうも狭っ苦しくて苦手なんです。大概ラーメン屋まずいし。

そんなこんなで高円寺のアーケードを早々に抜けて、なんとか通り(地蔵通り?)のほうまで行くと、中央線特有の”外から見たら全体的に茶色の古本屋”があるもんだから、吸い込まれるように入ったわけです。

なぜか特定の古本屋には置かれている”マリファナ・ハイ”(でかいのでかなり目立つ)を筆頭に”アシッドなんとか”や”マッシュルームなんとか辞典”、”ボブ・マーリーの歴史”、アムスうんたら”みたいな本が羅列されて、尚且つ店員がやたらにやさしい碌でもない店だったわけですが、そうゆう古本屋に大概直結して置いてある精神系の本なんかを集めていたもんだから、店内をジッと見定めていたんです。

そのうちに澁澤龍彦や乱歩、種村季弘なんかの棚(この分類も大雑把だけれど、自身が古本屋の店主だとしても、同棚に収めることでしょうね)を見ていると、”ドグラ・マグラ”なんて書いてある文庫本がある。
なんか見覚えがあるなーなんて考えてみると、大槻ケンヂが「俺はドグラ・マグラを狂うように読んで狂った」みたいなことを何かの記事に書いていたのを思い出したんです。(大槻ケンヂとドグラ・マグラが共存している人は結構いるんじゃないかな笑)

ドグラ・マグラは夢野久作の書いた中でも割と知られているものです。(今もその辺で文庫買えるし)
わりと知られているくせに、この本を狂うまで読む人はあまりいないのではないでしょうか。

どんな本か。

記憶をなくし、精神病患者扱いされていた主人公から始まります。彼は様々な手段で自分は何者かを知ろうとし、そこにはさまざまな人が現れ、読者(私たち)さえもそこに入り込んでいるし、その後は脳がうんたらかんたらみたいな医学書みたいな流れになったり、細胞がうんたらのような話を通り越して、読者は自己意識をどこにもっていくか迷いながら衝撃的な結末へ向かうわけです。(ほんとに衝撃的なので読めばいいです)

話がドグラ・マグラに集中しましたね。

その本屋には”夢野久作全集”というのが大事に飾られていたわけです。
そこにドグラ・マグラの表紙が違うものも混じっていて”なんだろう?”なんて見ていたんですね。

赤主体の言ってしまえば毒毒しい感じの。
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←夢野久作全集






確か8000円くらいだったと思うんです。全集ではなくそれぞれが。

自身がその時買った文庫の中に、この”赤”の挿絵が入っていて、なんだかおもしろい絵だなーなんて思っていたんです。

そんなこんなで5年。
ついこの間、またそんな絵が目の前に現れると・・・・。
高円寺ではなく、清澄白河で(現代美術館)

場所と時間が記憶を曖昧にしたのかすぐには思い出せず、もやもやしていたんですが、当日展示室に入ると、もちろん夢野久作全集が並んでいるわけで、所有者は高円寺のあの店主か?なんて思いながら観ていたわけです。
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中村宏さんはまだ健在です。75歳くらいになるようですが、2002年から2004年くらいの作品はぶっ飛んでいました。(web上に画像が見当たらないので、彼の後期の作品はupできないのですが・・・)
浜松出身で造形大の教授みたいです。浜松出身で今年造形大を卒業するQrome君は講義を受けたりしたのでしょうか?笑

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この展示会は必ず行ったほうがいいですよ。
「趣味じゃない」とか言わないで。
新国立美術館にピカソやシャガール観にいってる場合じゃないです!

中村宏さんの時代性、内面がリアルに出ているように感じたので、正直まともに見たら疲れますけどね。
作者と同世代の人はさらにきついんじゃないでしょうか?

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Underground Broadcasting
2007/03/08(Thu) 00:09:54
どうもこんばんわ。

ここのところ毎日渋谷にいるものだから、どうもレコード屋づいてしょうがない。(帰り道にあるものだから寄らないわけにいくまい)

学生の頃も恵比寿という場所柄、日課のようにレコード屋である。(その間、恵比寿から渋谷まで毎日歩いていましたが、習慣でしょうか、電車に乗り降りすることより、歩くほうが面倒ではないという考えが未だにありまして都心では歩きまくる習性があります。体力はなくなったように思うが・・・・)

で、本日のラッキーな4枚。

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Herbest Moon, Junji Kanari

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Numb, Youske Nakano, Ackky, DJ Hisa

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DJ Baku, DJ Duct, DJ Itao, Inner Science, DJ Kiyo

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DJ Sodeyama & Gonno, Goth-Trad, Shuren The Fire, Ponchi, Taikoman


メンツみたとおり、「ああーそうゆう感じね・・・・。」と予想がつき易い4枚。笑

LIBEのデザイナー、森田貴宏さんのビデオUnderground Broadcastingのサントラと言ったところです。

F.E.S.N(Far East Skate Network Production)の作品というと、スケボービデオが主なんですが、ミュージックビデオ、ドキュメンタリーなんかもあります。自身はTHA BLUE HERBのビデオしか所有していないです。(彼らのPHASE 3の発売が間もないですが、楽しみですね。クリップで見た感じONOちゃんのトラック・・・・ねぇ笑)

今日は、なんでこんなこと書いてるかってアンドレ・ブルトンの”自動記述”について書いていた記事が消えてしまったから、忘れ去る為に雰囲気をできるだけ変えているわけです!(今、思い出してしまった)

次回かなんかに書きたいんですが、”自動記述”はどうやら前の記事で書いたシュルレアリスムの根底にあるようなもののようなので、少し突っ込んでみようというわけです。

ちなみに自動記述とは、”なにも考えずに紙に向かい、ペンを高速で走らせる行為”のことです。
やったときある人もいるでしょうけど、結構おもしろい結果がでます。

それではまたー。

Soft Machine / transfigureさん
2007/03/06(Tue) 02:21:44
一つ下に載せた記事(イラスト)は、transfigureさんによるものです。

以下、traさんがブログに載せていた概要をそのままコピぺします。

Soft Machine:柔らかい機械

機械でも生物でもないもの、現実に存在しないものを表現したい。

そして、それは僕が影響を受けたもの、好きなもののサンプリング/カットアップ/リミックスであること。

平面でのみ表現でき、立体物に造形できないもの。

そう考えたとき、ふと浮かんだ言葉がウィリアム・S・バロウズの小説のタイトルでもある " Soft Machine "だったんです。

僕がぼんやり思っていたことにベクトルを与えてくれました。
ピッタリの言葉だったんです。



初期ウルトラシリーズの怪獣、ウルトラマン、ウルトラセブンのデザインを行ったのが、シュールレアリズムの彫刻家である成田 亨(なりた とおる)先生です。

僕の絵は、その怪獣、マン、セブンの部分をサンプリング/カットアップ/リミックスして描いているんです。

最大限の敬意を表して。

成田先生についてはWikipediaで検索してみてください。
いかに偉大なアーティストであったか理解できるでしょう。



製図用シャープで描くのは、均一な線で表現したいから。
Gペンとか、筆とかの筆圧で太さが変わるのが嫌なんです。
それでいてアドビ・イラストレータなどのベジェ曲線よりも柔らかな感じにしたくて。
それに...僕の手に一番馴染んでいるから。


20年前にもシャープで描いてたんです。
そのときデッサンをずいぶんやったんですが...うまくいかなくて諦めました。


では、何故、今、描き始めたのでしょう?
それは吹っ切れたから。
アカデミックな教育を受けていなくても、絵は描ける。
自分のやりたいようにやる。
要するに快楽原則に忠実に表現しよう、と思い立ったからなんです。


稚拙さを武器に。


以下 akarma(私)

traさん。勝手にコピペしたり掲載したりしました。気にいったんです笑

transfigureさんの作業は、明確です。
とても数学的なんですね。 一緒にご飯を食べに行ったときにメニューを対して見ることもなく決定していた時に感じました笑

初期ウルトラマンシリーズ、成田先生については、”日本のシュルレアリスム”という本で少し読んだことがあります。
ウルトラマンのディテールは確かに超現実的デザインのように感じる。(怪獣に関しては一概に言えないけれど)。
この辺の話は友人cobra君が詳しいのではないだろうか?笑
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シュルレアリスムに関してはdada-experiment-societyをやっている上で避けることが出来ないことは、感じていました。
現状、本を適当に買い漁っている感じです。(アンドレ・ブルトン中心に)

ただ全体を知るには何年かかるやらという文化であることはわかってきました。
順繰り順繰り。
a-p-断
2007/03/05(Mon) 03:51:45

様々な環境変化や自身の悪態、日常のタイミング的なものが重なり、約2ヶ月ぶりにmy pcからの更新です。
異常なスピードで日々が進んでいたので2ヶ月で何か心理的に大きく変化をしたか?というとそうでもない・・・とは言えません。だいぶ変化しているのを感じます。

今は、経験したことがないほどの時間経過高速化が自身の中で進んでいた事を、何が原因か考えていたところです。

自身が表現者ではない(なりえない)事からくる欲求の無方向性。

上記の表現者とは、「なにからも誰からも生かされていないpurist」のことを指しています。(この言葉自体を曖昧に思うかもしれませんが、ニュアンスの問題になってしまうので・・・)

自己(共通でも可)心理表現を行っている知人、友人、他人は周囲に5万(10人くらいか)といるが、puristは、なかなか見当たりません。(”ピュア”に”リスト”を付けたこの英単語本来の意味からすると別のいい言葉があったかもしれない)
それは単純に年齢(生きて考えた時間)を重ねたことからくる、”実際的必要性”から目を離すことが容易ではなくなったからではないかとおもったんです。

こと自身に関しても同様で、実際的必要性のない音楽製作を行うことがあるが、そこに自身の創造性が排出することはいままで経験したことがないわけです。

そもそも”自身の創造性”とはなにか?
自身で創造したことがいままでにあったか?

・・・・・ない笑

もしそれに近いものがあったとすると、それは”記憶”のことです。(DNAの話はややこしくなるので抜きにして)
あたりまえの事だが、現在(いまここ)以前の、思考の集合や断片で”創造”という”幻想”を作り上げています。(それ以外にも”偶然”や”認知”なんかもありますね)

要は自身の場合、創造からの表現を、本来表現において意味をなさない自己アーカイヴィングから形成していることになります。
アーカイヴィングが表現において意味をなさないと書いたことに疑問を感じるかも思いますが、それはアーカイブを具体として捕らえた時に、それは1冊の本と変わらないという解釈においてなので、”記憶からくる影響”とかそうゆうことはここでは無視しています。

そうなってくると重要なのは、”記憶の形をどのように表現の形にするか”ということになります。
辞書で調べたときに”表現”は、自己を形成している内面を表に現す方法という感じになっているので、一般に”表現”をすると言う行為はこのことに当たると思います。(自身の思う表現の形はもっと簡素でpureなものなので、納得がいかないのですが)

記憶はとても現実的(これも個々で定義が違っている)なものです。自身ではコピー機とスキャナーに近いものがあると思っています。
出力の際は色付け(加工)もできるし、数を増やすこともできるが、内部ソフト(一般にこれが創造力と言われる部分かもしれない)は制限があるかのように、原型を崩すことをしないわけです(できなくなっている)。

バグがでても修正しようとするか削除してしまう。(悪意の有無の問題でもない)

バグが生じた場合、例えば不意にどこかで隣に座ったジェントルマンが手をつなぎ踊り狂いはじめるとかでもいい。それを受け入れるか受け入れないかは何によって判断しているのか。
ジェントルマンが電車で隣に座っていたのなら、なんとしても避けたい。
ジェントルマンがやばい音楽が鳴っているクラブかなんかで、隣に座ったのなら、まー受け入れられる(かもしれない)。自身の場合はこんな感じです。

バグの捕らえ方は、自身を置いてある環境だけで違ってきますね。(少なくとも自身のような、実際的必要性から目を離せなくなっている身としては)

記憶の断片をどう繋ぐか(もしくは”繋ぐ”という意識自体を変化させるか)、バグをどこまで捕らえきれるか。
アーカイヴィング的創造が自身の表現(のようなもの)に直結してしまうのならば、上記の2つは重要課題になってしまうわけです。

個々の言葉や思考(信念すら)が、類似化(これは急激に進行しています)していますが、一本化されるくらいなら言葉が通じないくらいのほうが、健全ではないでしょうか?

なにか(人や社会性や)に生かされている。
そのことを知った以上、生かされ方や生かし方をどう配列するかが、自身のやり方のように思った次第です。

おやすみなさーい

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